January 2009 Archives

みうらじゅんとバナナマンの絶対に出る授業

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DVD『みうらじゅんとバナナマンの絶対に出る授業』を観た。みうら先生が、母校のムサビを舞台に「誰も興味をもたないもの=好きでのないけど嫌いでもないもの」を一生懸命講義する。DVDに収録されている講義内容は、

1. セガール概論
2. 次郎長一家概論
3. AMA(海女)概論
4. ゴムヘビ概論
5. アンバ概論

の5つ。一般の受講生+バナナマンは、とりあえずスティーブン・セガールに強い興味関心は持っていない。その興味を持たれない「科目」をあつく語ることによって、興味がわいてくるようになる(かもしれない)点がこの『絶対に出る授業』の特徴の1つ。

テーマ設定も、みうら先生の講義内容も実に面白い。...とともに、それまで関心をもってなかった事柄=好きでもないけど嫌いでもない事柄の講義って、大学の一般教養のそれにすごく似ているような気がした。私は心理学の一般教養を担当したこともあるが、心理学を専門にしていこうとする学生さん以外にとっては、「心理学=好きでもないけど嫌いでもない」だと思う。そこで、心理学という学問がなんであるかとか、どういうところが面白い(と私が思っている)のかを話す。その点ではセガールも心理学も同じにみえた。果てしなくどうでもいい論考だけども。

市町村単位で「子ども脱ケータイ」が宣言されたり、最近話題の「子どもとケータイ」。これまではその利用者数が少なかったり、インフォマント(小中学生やその親)へのアクセスが難しかったりする理由で、利用実態に関する研究はまだそれほど蓄積されてきていなかったと思われる。

そんな中、『ケータイのある風景:テクノロジーの日常化を考える』でご一緒させていただいた中央大学の松田美佐先生より、最新の著作(論文)をご恵送いただいた。

Misa Matsuda (2008) Children with Keitai: When Mobile Phones Change from "Unnecessary" to "Necessary", East Asian Science, Technology and Society: an International Journal 2: 167-188.

以前よりこの論文を執筆されていたことは存じ上げていたが、社会の興味関心とこんなにもマッチしていて、スゴス。

論文でも紹介されているが、2005年11月の調査では、小学5-6年生の携帯電話所有率は29.7%、中学生では65.3%とのことである。松田先生が調査した2006年から2007年にかけては、中学2年生(東京)で75%にまで増加している。ちょっと前までは、高校入学直前/中学卒業時に「ジモトモ」との繋がりを保つ理由からケータイを所持することが多かったように記憶しているが、「ミンナモッテルカラ」というお強請りも使えるくらいに普及している。


このように急速に普及しているメディアは研究対象として興味深い。


現在でも「不要だ/悪だ」と考えられがちな子どものケータイ。その一方で、防犯・安全確保の目的を持つ「子ども」をターゲットとした「必要な/良い」端末も多く販売されてきている(防犯意識を誘う「治安への不安」は、実は「体感不安」ではなかろうかという興味深い指摘が論文中でなされている)。この「不要」と「必要」を巧みにコントロールしながら、親子間での「ケータイ所持に関する交渉」が行われる。本論文は、その交渉の具体性を描写しながら、新しいメディアを透かして現在の家族関係の姿を論述するものとなっている。


この交渉の具体性が面白い。


インタビューには、子どもがケータイを所持することにより、いじめや出会い系サイト、「危険な他者」などとの出会いやトラブルの可能性を危惧する親の様子が示されている。また、子どもの「ケータイ依存」も問題視されているようだ。それにたとえ家族割などに入っていても、ケータイ所持には数千円/月かかる。それゆえ子どもには「贅沢品」であり、「できれば使わせたくないテクノロジー」である。

なのに、「子どもの安全」という話になると、調査対象となった親は「まっとうな理由」として調査者に語りだす。この揺らぎが非常に面白い。幼稚園児のDSにしても、小学生のケータイにしても、子どもには「贅沢なテクノロジー」であり、世間一般には「早い」とつっこまれることが予測される。よって"ケータイは親にとって「できれば使わせたくないメディア」であるがゆえに、子ども自身が強くほしがっても、すぐにそのまま買い与えることはない。"のである。

それゆえ、「贅沢品」であることを了解しつつも、何かそれを補ってあまりある「全うな理由」が必要となるのである。そして論文にも示されているように、インフォマントは「子どもにケータイを持たせたきっかけ」(むしろ「いいわけ」?)について調査者に数多く語ることになる。

これまでは、もしかしたら早期にケータイなどのテクノロジーを持たせるのは、その親の「特殊性」、「個人の問題」として片付けられるような状況もあった。しかしこの論文で示されているように、着眼点として重要なのは、「必要性を感じるような具体的な状況との出会い」なのである。

その「必要性」を担保する上で、「治安への不安」の言説や「安全」は非常に強力なツールとなる。さらに興味深い点てとして、"子ども自身が「子ども(=自分)の安全」に対する親の関心を逆手にとって"交渉し、"親子の「綱引き」に「勝利した」ケース"も紹介されている。

本論文は「子どもにケータイは必要か否か/善か悪か」といったような、ここ何年か議論の対象となっている論調とは一線を画す。むしろ一歩ひいて、実際にケータイが家庭や学校でどのような「意味」を持っているか、またそれがどのように再構成されつつあるかについて、頭を冷やした分析がなされている。

子どもにとってあたらしいメディアの意味は、本論文で示されているような具体的な交渉の中のみに存在すると思う。交渉は日々家庭の中で生じ、学校や地域に拡張し、やがてある時点での「常識」となっていく(「常識」もまた再構成され続ける)。「社会的なもの」としてのテクノロジーの意味を考えていく上で、さらには「家庭」や「子ども」の今日的意味を考えていく上でも、非常に面白く読むことができた。

松田先生、ありがとうございました!

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社会情報学会第13巻1号に、拙著「青年期前期のメディア利用からみる友人関係:女子高校生のプリクラ利用を中心に」が掲載されました。女子高校生、大学生のプリクラ利用者に対するインタビューや観察を通してまとめた論文になります。

グラウンデッドセオリーアプローチを用いて、インタビューの断片を「概念」と呼ばれる集合にまとめあげ、それを元に、日常的な利用を通してプリクラがどのように意味付けされているかについて、3つのカテゴリを提示しています。カテゴリは「協同的な記憶の蓄積」「友人ネットワークの可視化」「社会的ステイタスの形成」で、それぞれが女子高校生の友人関係に深く関わることがらとして紹介しております。

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女子高校生にとってプリクラを撮影、共有し続けることは、友人関係の網の目に生き続けるための重要な方略の1つとなっていると見て取れます。プリクラというメディアを利用することで、自分の友人との関係や序列を他者に表示し、その中に自分が誰であるのかということを明示しているといえます。女子高校生のしていることだけを見れば、プリクラの取得や閲覧や交換といったミクロな行為群の連続に過ぎないのですが、一方で、誰と撮るのか、撮ったものをどのように取り扱うのか、そういった非常に具体的なことが友人関係という抽象度の高い事象の下支えになっていると考えます。

この論文をまとめあげる段階でもまた、様々な方々にお世話になりました。匿名の査読者3名の方々からは、非常にあたたかく、かつ刺激的なコメントをいただきました。本当にありがとうございます。

半生キャラ

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コスプレ論文執筆の一環で、重要なインフォマントのBanriさんとお会いした。インフォマントの属性の確認だとか、インフォマント(レイヤー)どうしの関係をソシオグラムにあらわすための作業にご協力いただいた。

インフォマントが好きなジャンル、象徴するようなコスプレや同人趣味を聞いていたのだが、その一つに「半生(はんなま)」というものがあった。知らない事がまだまだ多すぎる...。

半生とは、読んで字のごとく「はんぶんなま」な対象を指す。実在するタレントなどがヤオイの対象となる場合、それは「ナマモノ」扱いされ、創作上危険を伴うとするのが腐女子業界では常識であろう。

では半生とは?Banriさん曰く、仮面ライダーのような実写の物語などがそれにあたる。仮面ライダーは架空の存在だが、それを演じているもしくは「中に入っている」のはナマモノの人間(俳優)、...なのでハンナマ。仮面ライダーのような変身アクションヒーローものなどを愛好し二次創作に向かう人たちは、ハンナマ・ファンとなるわけである。

帰宅してハンナマ検索かけたら、wikipediaのナマモノ頁にハンナマ定義ををきちんと記述していた。「編集され増殖する知」にまた驚いた。

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生モノ(なまもの)とは、同人誌やドリーム小説において、タレントやスポーツ選手など、実在の人物を題材にしていること、および題材にして制作された作品を指す隠語。特にやおいのジャンルで使われる。生モノの歴史は古く、80年代には既に同人誌即売会において「芸能」ジャンルの販売スペースが設けられていた。

実写ドラマ・映画などを題材にしている作品は、登場人物自体は架空であっても、実在の俳優が演じているため、「半生」などと俗称されることがある。(wikipediaより)
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きのう何食べた?

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いまさらながら、よしながふみの『きのう何食べた?』が面白い。『西洋骨董洋菓子店』や『大奥』で有名な著者だが、その中でも『きのう何食べた?』はかなりキテる。

ストーリーやマンガ特有の「間」のとり方や仕込まれたネタは勿論のことだが、43歳イケメン弁護士のゲイと、41歳のひげ美容師のゲイ、この二人の同棲物語という設定が秀逸すぎる。

社会学者(エスノメソドロジスト)ガーフィンケルの「アグネス」(男性から女性に性転換したアメリカ人の事例)では、「”本当は”男性であることを示さない事」がいかになされているかが示されている。『きのう何食べた?』はそのゲイカルチャー版だろう。「アグネス」の例を拡張すれば、ストーリー中の各所に「ゲイであることを隠す事、これをすることで逆説的に”ゲイである事をしている”こと」がうまくネタ的に織り込まれているように読める。

43歳イケメンゲイ弁護士を取り巻く環境も秀逸。例えばイケメン弁護士の母親は、「息子がゲイであってもそれを認めるべき」だという社会的な期待に過剰なまでにこたえようとして、かえって不自然なコミュニケーションに陥ってしまう。

うならされる記述(=発話)も随所にちりばめられている。

43歳イケメンゲイ弁護士:「ノンケの男の美貌なんてはかないもんよ。あいつらその美しさをキープしようって気が全然ないんだもんな〜」
41歳ゲイヒゲ美容師:「けどそういうノンケのゲイっぽくないところに叶わぬと知りつつ恋しちゃうのもゲイなんだよね〜」

この想像/リサーチ力に感嘆する。

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北海道大学の伊藤崇先生より『卒論・修論をはじめるための心理学理論ガイドブック』(ナカニシヤ出版)をご恵送いただいた。

心理学や社会学的な論文を書いたり、執筆の相談にのっていると、どうしても理論にフリマワサレル場面がでてきてしまう。例えば、収集してきたデータをお気に入りの理論にただ当てはめてしまったり。もしくは、なんだかんだデータを紹介したあげくに、「◯◯という現象は誰某(199X年)が述べるように、社会文化的に生成、維持されているのだー。」と述べて終えてしまったり。教条主義的だし、なんのためにデータをとってきたのか分からない。

どうしてこのようなことが生じるのか。それは理論の物語る甘ーい上澄みだけを吸収して分かったつもりになっているから。それまでとは異なる世界の見えを提供してくれる理論はことさら魅力的で、その言い回しを真似てみたくなる。

経験を積んだ研究者はそんなことないだろうが、私は未だに上記のような理論にフリマワサレル論述や、理論にフリマワサレタ助言をしてしまうことがある(という自覚がある)。

ではどうしたらそんな理論の用い方を避けられるのか。それは理論を徹底的に読み込む必要がある。他の人がまとめなおした解説書のようなものではなく、原典にあたり、読み込まなければならない。それがこの本のキーフレーズ「理論のメタ読み」である。

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「理論」に振り回されずにすむには、目前の「理論」を客観的にみること、いわゆる「メタ読み」ができないといけません。「メタ読み」とは、今読みこなそうとしている「理論」を、他の学者の理論や同じ著者の例の文献で展開されている理論とすりあわせる事で理解しようとする読み方です。(ⅲ頁)
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本書では、状況論ではおなじみのヴィゴツキーの『思考と言語』、レイブ&ウェンガーの『状況に埋め込まれた学習』、エンゲストロームの『拡張による学習』、コールの『文化心理学』といった著書で展開される諸理論やら、心理学で有名なフェスティンガーの『認知的不協和理論』のような古典理論までをも相手にしながら、「メタ読み」を実践的に展開している。

その流れはABCD。


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A: Abstract 理論の内容の要約
B: Background 理論が書かれた歴史的/社会的/人物的背景
C: creativity 創造性。その理論のどこが新しいのか、どこが評価されているのか。
D: direction 応用可能な方向、処方箋。その理論に従うと、世界がどのように見えるのか。
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例えばベイトソンの『精神の生態学』のABCDの概要は以下のようになっている。

A: ベイトソンは統合失調症患者の息子とその母親とのやりとりを観察していくうちに、特有のコミュニケーションパターンを発見した。それは息子が母親に接しようとすると母親は身体をこわばらせて拒絶するものの、口では息子への愛情を示そうとするといったようなこと。これをベイトソンは「ダブルバインド」と呼び、生物学的要因ととらえられてきた統合失調症をコミュニケーションの問題として捉えなおした。

B: ベイトソンがダブルバインド理論を構想していた時代は、さまざまな領域で因果論的な見方を見直す風潮が生じていた。つまり、何が問題が生じているときにすぐにその原因を探すのではなく、「どうしてそれが問題として可能になっているのか」を問い、「(問題の)状態の維持を支えるプロセス」を記述しようとする。そんな思考様式である。

C: ダブルバインド理論の新しさは、統合失調症というもっぱら個人「内」の問題としてとらえられていた問題を、コミュニケーションの問題、つまり個人「間」の問題として捉え直した点にある。先の統合失調症の息子と母親の関係でみてみよう。母親の息子への拒絶と接近の繰り返し(ダブルバインド)により息子は発作を起こす。そしてその都度「息子はおかしい」と思う母親の意識は高まり、いっそう息子と距離をとろうとしてしまう。こうして発作が起きることで、さらに発作がおきやすい状況(ダブルバインド)が循環してしまう。こういった「循環システム」に目を向けると、実はそのシステム自体は非常にうまく機能していることが浮かび上がってくる。

D: このようなベイトソンの理論は、どのように用いることが可能だろうか。筆者(加藤弘通先生)は、ここで不登校とスクールカウンセラーの例をあげている。学校に適応できず「うまくいっていない」ととらえられがちな不登校は、どのような「システム」のもと達成されている(=「うまくいっている」)現象と考える事ができるのか?また「うまくいっていない」と批判されがちな教育現場でのスクールカウンセラー、これにはどんな悪循環のシステムが見いだせるのか?

Dで挙げた問いの回答は非常に興味深いものなので、是非本書を手に取って読んでいただければと思います。

#また、上記のABCDの内容は、ものすごく端折って書いています。16の理論すべてについて詳細に記述されています。

このベイトソンの章に限らず、極めて明快に問いにこたえてくれている。非常にテンポが小気味よい。執筆者は10人いるのだが、(全ての章がこのABCDの流れで統一されていることもあり)書き方にぶれがないのも本書の特徴だ。通底している。編著ものだと各章の記述レベルが異なり読みにくい場合があるが、すらすら読める。あとがきを見ると、7年もの歳月を費やしているとある。相当の時間を費やして文章を練り上げてきたがゆえの読みやすさでもあろう。

タイトルには「卒論・修論をはじめるための」とあるが、テーマ選びの段階でさらっと読むだけではもったいない。むしろ、本書の味は卒論・修論を執筆している段階でもじわりとわいてくるだろう。1月は卒論・修論執筆者が多い時期だと思うが、心理学で論文を執筆している学生さんは、常に机上においておきたい一冊であると思う。

HCI設計論:暦本純一さん

小川克彦先生の「HCI設計論」の特別講義で東京大学情報学環/ソニーコンピュータサイエンス研究所の暦本純一先生がきていたので授業に参加した。

PSP「みんなの地図」にも搭載されているPlace Engine(地下の多い東京では意味をなさないGPSではなく、wifiで位置情報を特定するシステム)やらインタラクティブテーブルやら、とにかく日本のインタフェース業界を牽引してきた暦本先生のこれまでの実践をいっきに見ることができた。

「電脳コイル」なんかのはるか前からAR(Augumented Reality)のアイディアとともに、ドラゴンボールのスタウター的なもので何かできないか模索していた暦本先生。徹頭徹尾ギーク。ギークのかがみ。

授業内には、「インタフェースは体系だてて研究するようなものではなくって、日々ギークとして実践すること、このことの蓄積の賜物」といったようなことを述べていた。論文も大量に執筆されているが、同時にフォーマル/インフォーマルな組織や対人ネットワークから、ARに附随する技術を得ること、そういった「ギークの生態系」の中に生き続けることが重要なようである。

コスプレイヤーの学び

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「サブカルチャーに見る学び」をテーマに、現在コスプレ・コミュニティにおけるフィールドワークをまとめている。草稿は完成し、論文化に向けて識者の方々からコメントをいただいている段階。非常にありがたい。

タイトルというか、方針は決まりつつある。"DIY"、"peer review"、"reciprocal learning"をキーワードに、『コスプレイヤーの学び:文化的実践としてのコスプレはいかにして達成されるか』という路線。("DIY"、"peer review"、"reciprocal learning"というキーフレーズは、オタク・コミュニティであれ研究者・コミュニティであれ様々なコミュニティにおける学びにあてはまるものと考える。)

ただし、コスプレ・コミュニティの文化的実践を詳細に記述しても投稿まではこぎつけない。今、社会心理学、社会学、ネットワーク論といったあたりの「コミュニティ」概念に関する書物を読んでいる。これまで、いかに「コミュニティ」という用語の歴史的・文化的・社会的変遷を知らずに、または軽んじてこのことばを用いてきたかを思い知る。

...これから加筆修正に何ヶ月かかるんだろか。できれば今年度中に完成させたいなぁ。苦しいなぁ。

イート・ア・ピーチ

先日、田原総一郎さんとも仕事をしているフリーライターの本郷明美さんと、横浜国立大学の有元典文先生と、下北沢で会合をした。出版書籍に関する相談会である。本郷さんは大学の先輩であり、以前仕事をご一緒させていただいている。

夜遅い時間、下北沢の「イート・ア・ピーチ」というお店をご紹介いただいた。外観や場所は以下の方々のサイトに詳しい。

http://www.bento.com/revj/2727.html
http://tokyoq.com/weekly_updates/tqoolj/peach.html

非常によいお店。特に1階。3畳か4畳くらいのスペースで、店員は小窓から出入りする。飲料は全て2階にあるため、注文が入ると軽快なステップで小窓を押し開け路上に出る。店内にあるモノ(ブローチみたいなものとかタバコとか)のほとんどは忘れ物か何かがそのまま放置されている状態で、店員さんも「初めて見た」と言う。

ゆるい。それを求めて日々お客さんがくる(ようだ)。

どうやらこのお店のあるエリアは、シモキタ駅前再開発の対象になっているようだ。数年したらなくなるかもしれない。街行く人は、必ずといっていいほど一瞥する。こんなお店、下北沢で路頭に迷った際には是非。

『赤い糸』読了。有名な作品しかおさえていないけれども、『Deep Love』と『恋空』に続きケータイ小説3作品目。読むのはしんどいが、お約束不幸とそこからの回復の連鎖をベースにしたケータイ小説文法が分かると、文法に沿って展開されることへの期待も芽生えてきた。

「ケータイ小説は泣きたいときに読む」

以前高校生にケータイをどのように使っているかをインタビューした際、あるインフォマントはこのように言っていた。幸と不幸が短い周波でよせてはかえす、その主人公の感情の浮沈を数分程度で読めることが心地よいようだ。長く読みたければいくつかの波を読めばいいし、切れ目が明確なのもこれを支える。

実際に毎回読んで涙するわけではないだろうが、水戸黄門的お約束も期待できるので、このケータイ小説という道具があれば「ちょっと切ない気持ちになりたい」くらいの欲求はあらわれると思う。

「ケータイ小説を夢中で読んでるなんて友達には言えない」

一方でこのようにこたえるインフォマントも印象的だった。彼女は寝る前に布団の中でケータイ小説を読んだりしているようだが、「ケータイ小説を読んでいる=通俗的なわたし」というカテゴリ化を回避したいというようなことを述べていた。どんなコンテンツを消費するのか、このことはわたし=アイデンティティの可視化の問題であり、友達からどう見られたいかという印象管理の問題ともつながる。

古い話だけれども、2007年の書籍の年間ベストセラー「単行本・文芸」部門の1位から3位はすべて「ケータイ小説」が独占した。プロの作家ではない一般の若者によって書かれた作品がほとんどで、まるでメールの文章のような、横書きの短い文章が特徴。これを書籍化したものがベストセラーになっている。主な読者層は10代の女性で、しかも地方の子が多い。

この現象をうけて、2008年はケータイ小説それ自体やそれを消費する人々に関する論考が数多く世にでた。

その中の1つ、杉浦由美子さんの『ケータイ小説のリアル』では、ケータイ小説のようなケータイサイトやコンテンツは、「読む消費」以外に「書く消費」を生み出したという指摘がなされている。プロではないケータイユーザーが、ブログを書くような感覚でケータイを使って小説を書く。ケータイ小説は、それまでの情報の流通を少し揺さぶるものとして興味深い。

プロの作家が書いたコンテンツをただ読んで消費するだけではなく、アマチュアである自分が書いたものが他者にとって情報価値がある、という感覚を得ることができるのかもしれない。この感覚を得ることこそが「書く消費」ということになるだろう。

ケータイ小説の文法に着目した論考も多い。ケータイ小説はストーリーが急展開したり、お決まりのパターンがあり、場合によっては支離滅裂にも見える。こうしたアマチュアの作品であるケータイ小説は、はたして「小説」と呼べるものなのだろうか?文学なのだろうか?この問いに関する書物はいくつか出版されている。

石原千秋さんは、「ケータイ小説は『文学』か」という議論それ自体が無意味だと述べている。アマチュアのケータイ小説を小説と認めない人々は、純文学のみを小説と認めているだけであり、単なる好みの問題か差別の問題に過ぎない。

書いた小説をケータイで書いたアマチュアの「小説家」は、純文学としてその作品をアップロードしているわけではない。小説の形をまねている以上、アマチュアのケータイ小説も、小説である。ただし、それまでの小説とは異なるジャンルとして見る必要がある。

濱野智史さんの『アーキテクチャの生態系』の中での指摘も興味深い。

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アマチュアによるケータイ小説やそれをケータイで読む読者を、(ケータイ小説のワンパターンや支離滅裂さから)嘲笑する人々もまた、ワンパターンで素朴に見える。ケータイ小説には、ケータイ小説を批判する人たちとは異なるリテラシーを有した文化圏(=生態系)があり、そこにもそれ相応の「複雑さ」があるはずだという感度が欠けてしまっているのではないだろうか。

ケータイ利用のリテラシーの水準からみたら、ケータイ小説は非常にリアルなものである。だからこそケータイ利用のリテラシーの世界に生きる人々にとっては非常に価値があり、それ以外の人々からは批判される。ケータイ、またはケータイ小説は、限定的ながらも価値を同じくする人々の共同体形成を促進したのではないだろうか。
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ケータイ小説を入口の1つにしながら、わたしたちが、小集団でのみ共有可能な価値や評価やルールといったものに重要な「意味」を見いだしている点、この限定的な客観性を今日的な特徴の1つとして指摘している。

ケータイ小説の一読者として私がどの程度この「客観性」の意味を理解できたかと言えばほとんどできていないだろう。ただし「客観性」は生き物であり、共同体に参与してくる(新参)者の分だけ移り変わっていく。ケータイ小説のリアルもまた流動していくだろうし、書き手も読み手も「そこら辺の人」からなる共同体だからこそ、自分の読み/書きの実践が「客観性」に直接的に影響を及ぼす。

価値や評価やルールのようなことがらは、決して元々そこにあったものでも、外側から付与されたものでもない、ということ。このことは、ケータイ小説のようなアマチュア文化で見えやすい事柄だと思う。

あけましておめでとうございます!

新年あけましておめでとうございます!
これまで関わってくださった方々、本当にどうもありがとうございます。これまでよりも充実した一年になるよう、一日一日努力を重ねていきます。

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今年もさらにいろんな方々/組織とのネットワークを形成していければと思います。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

おみくじは「吉」。

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運勢:新しい事が始まる気配です。人間関係を大切にして周囲との調和をはかれば、物事は大きく発展し、成功を得ることができるでしょう。確実に前進する運気です。独断や我がままは折角訪れた幸運を逃します。他人への協力を惜しまず、思いやりのある行動をとること。
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