Children with Keitai: When Mobile Phones Change from "Unnecessary" to "Necessary"

市町村単位で「子ども脱ケータイ」が宣言されたり、最近話題の「子どもとケータイ」。これまではその利用者数が少なかったり、インフォマント(小中学生やその親)へのアクセスが難しかったりする理由で、利用実態に関する研究はまだそれほど蓄積されてきていなかったと思われる。

そんな中、『ケータイのある風景:テクノロジーの日常化を考える』でご一緒させていただいた中央大学の松田美佐先生より、最新の著作(論文)をご恵送いただいた。

Misa Matsuda (2008) Children with Keitai: When Mobile Phones Change from "Unnecessary" to "Necessary", East Asian Science, Technology and Society: an International Journal 2: 167-188.

以前よりこの論文を執筆されていたことは存じ上げていたが、社会の興味関心とこんなにもマッチしていて、スゴス。

論文でも紹介されているが、2005年11月の調査では、小学5-6年生の携帯電話所有率は29.7%、中学生では65.3%とのことである。松田先生が調査した2006年から2007年にかけては、中学2年生(東京)で75%にまで増加している。ちょっと前までは、高校入学直前/中学卒業時に「ジモトモ」との繋がりを保つ理由からケータイを所持することが多かったように記憶しているが、「ミンナモッテルカラ」というお強請りも使えるくらいに普及している。


このように急速に普及しているメディアは研究対象として興味深い。


現在でも「不要だ/悪だ」と考えられがちな子どものケータイ。その一方で、防犯・安全確保の目的を持つ「子ども」をターゲットとした「必要な/良い」端末も多く販売されてきている(防犯意識を誘う「治安への不安」は、実は「体感不安」ではなかろうかという興味深い指摘が論文中でなされている)。この「不要」と「必要」を巧みにコントロールしながら、親子間での「ケータイ所持に関する交渉」が行われる。本論文は、その交渉の具体性を描写しながら、新しいメディアを透かして現在の家族関係の姿を論述するものとなっている。


この交渉の具体性が面白い。


インタビューには、子どもがケータイを所持することにより、いじめや出会い系サイト、「危険な他者」などとの出会いやトラブルの可能性を危惧する親の様子が示されている。また、子どもの「ケータイ依存」も問題視されているようだ。それにたとえ家族割などに入っていても、ケータイ所持には数千円/月かかる。それゆえ子どもには「贅沢品」であり、「できれば使わせたくないテクノロジー」である。

なのに、「子どもの安全」という話になると、調査対象となった親は「まっとうな理由」として調査者に語りだす。この揺らぎが非常に面白い。幼稚園児のDSにしても、小学生のケータイにしても、子どもには「贅沢なテクノロジー」であり、世間一般には「早い」とつっこまれることが予測される。よって"ケータイは親にとって「できれば使わせたくないメディア」であるがゆえに、子ども自身が強くほしがっても、すぐにそのまま買い与えることはない。"のである。

それゆえ、「贅沢品」であることを了解しつつも、何かそれを補ってあまりある「全うな理由」が必要となるのである。そして論文にも示されているように、インフォマントは「子どもにケータイを持たせたきっかけ」(むしろ「いいわけ」?)について調査者に数多く語ることになる。

これまでは、もしかしたら早期にケータイなどのテクノロジーを持たせるのは、その親の「特殊性」、「個人の問題」として片付けられるような状況もあった。しかしこの論文で示されているように、着眼点として重要なのは、「必要性を感じるような具体的な状況との出会い」なのである。

その「必要性」を担保する上で、「治安への不安」の言説や「安全」は非常に強力なツールとなる。さらに興味深い点てとして、"子ども自身が「子ども(=自分)の安全」に対する親の関心を逆手にとって"交渉し、"親子の「綱引き」に「勝利した」ケース"も紹介されている。

本論文は「子どもにケータイは必要か否か/善か悪か」といったような、ここ何年か議論の対象となっている論調とは一線を画す。むしろ一歩ひいて、実際にケータイが家庭や学校でどのような「意味」を持っているか、またそれがどのように再構成されつつあるかについて、頭を冷やした分析がなされている。

子どもにとってあたらしいメディアの意味は、本論文で示されているような具体的な交渉の中のみに存在すると思う。交渉は日々家庭の中で生じ、学校や地域に拡張し、やがてある時点での「常識」となっていく(「常識」もまた再構成され続ける)。「社会的なもの」としてのテクノロジーの意味を考えていく上で、さらには「家庭」や「子ども」の今日的意味を考えていく上でも、非常に面白く読むことができた。

松田先生、ありがとうございました!