【あ〜!!】ケータイ小説【超お腹減ったしっ♪♪】

『赤い糸』読了。有名な作品しかおさえていないけれども、『Deep Love』と『恋空』に続きケータイ小説3作品目。読むのはしんどいが、お約束不幸とそこからの回復の連鎖をベースにしたケータイ小説文法が分かると、文法に沿って展開されることへの期待も芽生えてきた。

「ケータイ小説は泣きたいときに読む」

以前高校生にケータイをどのように使っているかをインタビューした際、あるインフォマントはこのように言っていた。幸と不幸が短い周波でよせてはかえす、その主人公の感情の浮沈を数分程度で読めることが心地よいようだ。長く読みたければいくつかの波を読めばいいし、切れ目が明確なのもこれを支える。

実際に毎回読んで涙するわけではないだろうが、水戸黄門的お約束も期待できるので、このケータイ小説という道具があれば「ちょっと切ない気持ちになりたい」くらいの欲求はあらわれると思う。

「ケータイ小説を夢中で読んでるなんて友達には言えない」

一方でこのようにこたえるインフォマントも印象的だった。彼女は寝る前に布団の中でケータイ小説を読んだりしているようだが、「ケータイ小説を読んでいる=通俗的なわたし」というカテゴリ化を回避したいというようなことを述べていた。どんなコンテンツを消費するのか、このことはわたし=アイデンティティの可視化の問題であり、友達からどう見られたいかという印象管理の問題ともつながる。

古い話だけれども、2007年の書籍の年間ベストセラー「単行本・文芸」部門の1位から3位はすべて「ケータイ小説」が独占した。プロの作家ではない一般の若者によって書かれた作品がほとんどで、まるでメールの文章のような、横書きの短い文章が特徴。これを書籍化したものがベストセラーになっている。主な読者層は10代の女性で、しかも地方の子が多い。

この現象をうけて、2008年はケータイ小説それ自体やそれを消費する人々に関する論考が数多く世にでた。

その中の1つ、杉浦由美子さんの『ケータイ小説のリアル』では、ケータイ小説のようなケータイサイトやコンテンツは、「読む消費」以外に「書く消費」を生み出したという指摘がなされている。プロではないケータイユーザーが、ブログを書くような感覚でケータイを使って小説を書く。ケータイ小説は、それまでの情報の流通を少し揺さぶるものとして興味深い。

プロの作家が書いたコンテンツをただ読んで消費するだけではなく、アマチュアである自分が書いたものが他者にとって情報価値がある、という感覚を得ることができるのかもしれない。この感覚を得ることこそが「書く消費」ということになるだろう。

ケータイ小説の文法に着目した論考も多い。ケータイ小説はストーリーが急展開したり、お決まりのパターンがあり、場合によっては支離滅裂にも見える。こうしたアマチュアの作品であるケータイ小説は、はたして「小説」と呼べるものなのだろうか?文学なのだろうか?この問いに関する書物はいくつか出版されている。

石原千秋さんは、「ケータイ小説は『文学』か」という議論それ自体が無意味だと述べている。アマチュアのケータイ小説を小説と認めない人々は、純文学のみを小説と認めているだけであり、単なる好みの問題か差別の問題に過ぎない。

書いた小説をケータイで書いたアマチュアの「小説家」は、純文学としてその作品をアップロードしているわけではない。小説の形をまねている以上、アマチュアのケータイ小説も、小説である。ただし、それまでの小説とは異なるジャンルとして見る必要がある。

濱野智史さんの『アーキテクチャの生態系』の中での指摘も興味深い。

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アマチュアによるケータイ小説やそれをケータイで読む読者を、(ケータイ小説のワンパターンや支離滅裂さから)嘲笑する人々もまた、ワンパターンで素朴に見える。ケータイ小説には、ケータイ小説を批判する人たちとは異なるリテラシーを有した文化圏(=生態系)があり、そこにもそれ相応の「複雑さ」があるはずだという感度が欠けてしまっているのではないだろうか。

ケータイ利用のリテラシーの水準からみたら、ケータイ小説は非常にリアルなものである。だからこそケータイ利用のリテラシーの世界に生きる人々にとっては非常に価値があり、それ以外の人々からは批判される。ケータイ、またはケータイ小説は、限定的ながらも価値を同じくする人々の共同体形成を促進したのではないだろうか。
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ケータイ小説を入口の1つにしながら、わたしたちが、小集団でのみ共有可能な価値や評価やルールといったものに重要な「意味」を見いだしている点、この限定的な客観性を今日的な特徴の1つとして指摘している。

ケータイ小説の一読者として私がどの程度この「客観性」の意味を理解できたかと言えばほとんどできていないだろう。ただし「客観性」は生き物であり、共同体に参与してくる(新参)者の分だけ移り変わっていく。ケータイ小説のリアルもまた流動していくだろうし、書き手も読み手も「そこら辺の人」からなる共同体だからこそ、自分の読み/書きの実践が「客観性」に直接的に影響を及ぼす。

価値や評価やルールのようなことがらは、決して元々そこにあったものでも、外側から付与されたものでもない、ということ。このことは、ケータイ小説のようなアマチュア文化で見えやすい事柄だと思う。