土曜日午後は青山学院大学で開催された納得研(納得研究会)に参加した。吉岡有文先生が、青学大学院社会情報学研究科の「イノベーション・スタジオ」を予約してくださった。イノベーション・スタジオは空間アレンジの自由度が高く工房的な学習環境には非常によさそうだ。
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2件の報告を拝聴した。
1つ目は、山村明子先生(東京家政学院大学)による「ファッションとジェンダー規範」。ジェンダー規範をファッションの形式の歴史的変遷の中に探る試みである。
------------------19・20世紀に形成されたファッションにおけるジェンダー規範が変わりはじめ、例えば近年のメンズファッションが女性的なデザイン要素を受容しはじめている。ジェンダーフリー教育との関連でジェンダー規範の具体的変化について紹介する。
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1990年代以降フェミ男が着目されてから、男性の服装の流行に女性らしいファッション=「フェミニンなもの」が取り入れられるようになってきた。柔らかさ、流動的なラインなどの要素を含むデザインの衣服を男性ファッションが取り入れるようになったのだが、それを2000年以降のメンズ雑誌(主にMen's non-no)の中に探っていこうという取り組み。
男性がフェミニンな衣服を着用していると聞くと違和感を持つかもしれないが、例えば花柄のシャツや巻きスカートのようなもの、丸みを帯びたデザインの衣服の方がコジャレたお店には多いのかもしれない。ちょっとおしゃれに気を使う男性なら、必然的に「フェミニンなもの」を取り入れることになっている。
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山村先生によれば、この「フェミニンなもの」は、実は12世紀から13世紀移行の欧州貴族のファッションにも見いだせる。例えばチュニックというスタイルもそうであったし、この頃の絵画を見ると男性(貴族)のファッションの特徴は「足を際立たせること」だったようである。
またアビ、ジレ、キュロットといった衣服に代表される18世紀のフランス宮廷ファッションも、レースの仕立ての飾りとか、流動的で柔らかいラインにあふれており、それは男性女性両方のファッションに共通していた。
この頃の衣服は「着るために支えてもらうくらいぴちぴちなもの」だったようで、リラックスできるものではなかった。非常にどうでも良いかもしれないが、このような衣服(衣装)の特徴はコスプレイヤーと一緒だ。コスプレーヤーの着用する衣装もまた、カメラの前であるポーズをとるためのもので、窮屈なものも少なくない。動きにくいし、それは普段着ではなく観衆を意識したファッションのデザインである。
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そんな楽しいコスプレイベント会場のようなフェミニンファッションも、19世紀になると一気につまらなくなってしまう。テールコート、ウエストコート、ズボンといったものに代表される「ダンディ」が入ってくる。
これはフランス革命が関係しているらしい。フランス革命では、「キュロットを着用する貴族」が攻撃された。革命に参加したヒトビトは、革命が達成された暁にはぼくらはそんな格好(今からみたらフェミニンな格好)はしないぞと意気込んでいたとこのとである。
結果、フランス革命後は(以前は農夫が着用していた)長いトラウザーズがフォーマルな衣服としてランクアップし、黒を基調としたダークカラースーツが主流になってしまった。これが、スーツに代表される男性ファッションのスタートである。
ただし、先述したように2000年以降フェミニンな男性衣服がファッション雑誌をにぎわすようになる。カットワークの丸いラインがでてきたり、フラワープリントがでてきたり。もしくはウエスタンシャツ=ハードな形なのだが、それにキュートなデザインがほどこされていたりする。
ただしそれも、中世欧州の男性ファッションをみれば、デザイン的には新しいことではない!ということになる。
そして、男性のフェミニンも歴史、時代とともに変遷していくのが面白い。
男性が女性らしいファッション=フェミニンをとりいれはじめたのは90年代からだが、それは一部の華奢な体系、女性的な雰囲気を持ったリーダーが主軸だった。男性が女性性を取り入れている、という状況で見られていた。
一方でより現在に近いフェミニンは、華奢で女性的な体系のヒトだけのものではなくなり、ハードなものの中にフェミニンとみられるものが入っていたり、アンバランスが入ってきている(例えば体育会系の男性でも花柄を着るとか)。それはもはや「メンズファッション」であり、女性らしさを男性が表現しているものではないのである。
自分が所属する「男性」という集団のメンバーとして、これまで私がどのように「フェミニン」を取り扱ってきたか自覚的になったことはない。しかし90年代初頭と今とでは取り扱われている商品に込められたフェミニンも、私の獏としたフェミニンに対する意味付けも変わってきているのだろう。そのことに自覚的になれて、非常に面白かった。
...今度有元典文先生と花柄を購入してみようか。ということになった。ユニクロに花柄があるかが問題。
2つ目の報告は岡崎ちひろさん(横国院M2・中学校非常勤英語教師)による 「教員の熟達化を促す教員共同体のデザイン」。共同研究者の一人でもある。
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今日、教員の熟達化・専門化、「実践力」の向上が求められている。そこで教育行政は教職大学院や教師塾といった場所を設定し、教員の能力の向上を目指している。教員の能力とは何か?その能力を育む環境とは?本研究では、能力は個人的なものではなく、集合的な、共同体と切り離して考えることはできないものであるという観点から、教員の熟達性・専門性の捉え直しと、教員共同体の再考を試みている。「能力」「背後期待」「ベテランとアマチュアの見えの違い」に関心のある方は是非ご意見下さい。
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「教員の実践力、授業力の向上」が叫ばれていて、専門機関が様々な取り組みを行っているが、その多くが教員の能力を教員個人に還元してしまう「詰め込み型」になってしまう危険があるのではないかというのがこの発表の始点。
そしてそうではなくて、教師の能力は共同体に存在するものとして「集合的能力観」を提案し、そこから教員の能力の捉え直しと教員共同体の再考をこころみる実験であり実践である。
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伝統的な見方では、「熟達教員」の頭の中には、教育実践で参照されるべき芳醇なリストが存在する。しかし、自分の行っている実践における技能を、リスト化することなどできるだろうか?
このような問いをたてた上で、例えば「女の子」はどのように「女の子」になっていくのか、という話題で例証しようとする。
どうしたら「女の子」になるのか、見えるのかをリスト化しようとしてもそれは難しい。無限にありすぎるし、常に女の子はこういうものだというリストを参照しながら行動しているわけではない。
一方で、同様に無限に存在する女の子としての「ルール違反」はよく見える。たとえば、ご飯をがつがつ食べる/下品なことを言う/足をひらいて座る...といったようなこと。ルール違反があるということは、ルールがあるということ。エスノメソドロジストのガーフィンケルはルール違反を通してルールをみようとして、そのルールを「背後期待」と呼んでいる。
この考え方を援用して、本研究では教員共同体における「背後期待」をさぐってみようとする。経験の長い教員は、自分のどのような行為が熟達を示す実践なのかを語る事はできないが、一方で新人教員の授業や振舞いにつっこみを入れることはできる。このつっこみが見られるということから、教員共同体にもある種の「背後期待」が存在するのではなかろうかと推測される。
そこで実験が始まる。ガーフィンケリングの実験。経験のあるヒトから見たらルール違反と見られるような言動を含むであろう、経験年数の浅い教師の授業実践ビデオにつっこみを入れてもらうことで、背後期待の可視化を測ろうとする。実験の様子は、まるで野球観戦をしているファンみたい。ヒッティングにでたバッターに、「そこはバントだよ」とツッコミを入れるような感じ。
新人の授業にも「そこはバントだよ」とツッコミが入る。例えば「フラッシュカードはスピードが命」とか「ここでほめないと」とか。ビデオの中の教員が、ベテランから見ると「教員らしく見えない」と見える。
そうして教師の背後期待を提示してもらい、かつそれを何らかの形で交渉の道具にする教師の共同体デザインが「実践力の向上」といった目標には必要なのではないかというのが本研究の主張の1つである。
何もベテランの提示するツッコミ=背後期待が万能なのではない(ベテランの方がツッコミ量は多いが)。どこかに固定化された背後期待が存在するわけでもない。それは交渉的なものであり、知識データベースではないのである。
むしろ、レイブ&ウエンガーの肉屋(の壁)の事例のような「背後期待」が共有されにくいデザインを変えてみたらどうだろうか。教員は忙しい。時間がなくって、また中には手の内を見せたがらない人もいて、他の教員と関わりにくい状況にある。とはいえ、現在の一部の実践力向上のための取り組みに手を入れる可能性は十分に指摘できる実践/実験だと思われる。
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山村先生、岡崎さん、ありがとうございました!
