土曜日は納得研@青山学院大学。佐伯胖先生はじめ20名以上もの参加でした。納得研は幼小中高大の先生方から大学院生、サイエンスライターの方や映画制作に携わっていた方まで、多種多様なナマの現場を駆け抜けている方々の集まりで、研究会後の飲み会も非常に豊か。
青山学院大学社会情報学部では学生教員にiphoneが無料で配布されるという驚愕の事実が判明。佐伯先生に無限に自慢され、私も次の日に機種変しに行きました。
学生にiphone上のアプリをがんがん開発させ、それをガシガシ世の中に提供せよ!という思想のようです。これは素晴らしい。素晴らしすぎる。大学側は激しく金がかかるわけだけれども、オープンなプラットフォームにアプリをダダ漏れさせるよう仕向ける教育環境はお見事。
青学の学生にとってのみ有益なアプリ開発でも面白そうだし、自分の住まうコミュニティにとって有益なものでもいい。勿論世界に向けてもいい。とにかく自分がダダ流ししたアプリを誰かが楽しむかもしれないという経験は情報デザインの学習にとって極めて重要だと思われる。
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納得研は駿河台大学の青山征彦さんの発表と、有元×岡部の『デザインド・リアリティ』に関する話題提供。
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報告1 「ハイブリッド・コレクティヴから媒介を考える」青山征彦さん(駿河台大学)
発表概要:ハイブリッド・コレクティブというのは、アクターネットワーク理論を背景にした概念で、主体性がさまざまなものとのネットワークの中でしか達成されないことを指摘するものです。今回は、この概念の問題点を検討しながら、では主体性についてどのような記述が適切なのかを考えたいと思います。理屈っぽい話ではありますが、心理学の様々な記述に影響する問題だと考えています。みなさんと議論できるのを楽しみにしています。
例えば私は、日曜日にiphoneを購入したのだが、iphoneを持った私はiphoneによってパワーアップしたとみることもできる。この見方は旧来的な人と道具の関係の見方。その一方で、ケータイという道具は私たちに「充電を要求している」とみる考え方が社会学にはある。ケータイが充電しろと私たちに語りかけていると。
この考え方だと、人間だけが全能で、モノはあくまで主体である私たちを増強するに過ぎないとは言えない。充電を要求するケータイと人間を非対称にとらえるのではなく、双方を同じネットワークの中の「アクター」として見てみるのが「ハイブリッドコレクティブ(異種混淆)」の考え方。
人間だけが何かをできるんだと単純化するのは不誠実で、モノと主体である私たちを同列において議論するのが「ハイブリッドコレクティブ(異種混淆)」の考え方。
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科学技術社会学者のカロンはこんなふうにも書きます。
「私が東京から京都にドライブしようとして日産車のイグニッション・キーを回すや否や、私は次のようなもの全てを動員することになる:車をデザインしたエンジニア、材料の抵抗を調べた研究者、中東の砂漠を探索し石油のために掘削を行った膾炙、ガソリンを生産する精製所、高速道路を建設しメンテナンスをする土木建設会社、私に運転を教えたドライビング・スクールとその先生、交通法規を創案し発行した政府、法規を強いる警察官、私に責任と向き合うことを援助する保険会社。イグニッション・キーを回し、東京から京都へドライブするという簡単な行為は、東京から京都へ私を運ぶという行為と関係する人間および非人間物の拡張されたネットワークを動員する。つまり、私が車を運転するという行為は集合的なのだ。」
青山さんは、このハイブリッドコレクティブの面白さを十分認識しつつ、ちょっと胸焼けが残る、と述べる。溜飲が下がる状態にするにはどのように説明をすべきか検討されている。
・どのような視点から、例えばドライバーと道路と保険会社と...を記述しているのか?
・非人間と人間は対象と言えるのか→非人間だけのネットワークもあり得るのか?
・モノと人とのネットワークを事後的にしか捉えていないのではないか?
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青山さんが最も主張する点は、私たちの主体がモノとの関係で決まるのならば、まずその状態に至る歴史性をきちんと追わなければならないだろうというもの。「ハイブリッドコレクティブは一夜にしてならず。」
さらに、主体である私たちがどんなモノを動員するかという、その選択性を持っていることを認めながら(モノの方が選択可能性を主体に投げているので、選択は人間のみで達成されているわけではない)、「あらかた決められている」世界にいつつ、受動と能動のモザイクにいる人間の姿を記述するのが興味深いのではないかとする。
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面白い。
人間とモノの関係は常に動いているし、今もとまっていない。あらかた決められた構造の中にいつつも、日常生活の端々でその構造=文化を維持したり、ちょっと変えようとしたり、崩壊させようとする。主体はハイブリッドコレクティブ的にデザインされながら、リデザインしようとする存在だと考える。
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報告2は『デザインド・リアリティ -半径300メートルの文化心理学』
有元先生が書いてくれた以下の報告概要文が激しく美しい。これだけでご飯3杯いける。
発表が異様:ひとは社会の中へ、すでにデザインされた世界の中へ、その後継者としてあらわれる。ルールとふるまい、意味と価値がすでにひとびとによって運用されているその途中からに参加する。初心者や新入りも同じこと。かれらの参加を待ち構える世界は、既に先達の実践によって秩序だっている。私たちがデザインド・リアリティと呼ぶのは、こうしてひとびとの実践によって維持され、再生産されている秩序だったこの世界のことである。だから、ひとびとの日々の実践と教え・学びは不可分なことである。生きていくことは、人間にとってはすなわち、教えたり学んだりすることなのである。このアイディアを、具体的なユース・カルチャーのフィールド調査を題材としてご紹介します。

具体的には若者によるプリクラとケータイの利用について発表。論のおかしさ、不徹底さ、観点に関する具体的な示唆をいただいた。
・アマチュア発の情報発信が胎動する面白さと、プロ/アマの持つネットワークの相違。
・青学でやっているようなiphoneのアプリ開発のようなトランスナショナルな世界と、友達がやらないようなプリ帳を意図的にデザインするようなちっちゃい世界との関係。
・トロブリアント諸島だろうと、いつの時代だろうとやってきている自分が住まう世界のリデザインの面白さ。
・主体の「本質」は「表現」に宿る=表現を通して「本質」を可視化すること、それが人間のやっていることという視点。
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宴席はアシタバが食えて伊豆七島の焼酎がすべてある近隣の居酒屋へ。生アシタバをむさぼり食ったらちょっと胸焼けした。