April 2009 Archives

オオカミとブタ。


web上で人気になっている「オオカミとブタ。Stop motion with wold and pig」。さすがにこの「オオカミとブタ。」まで気がきいていて、かわいくて、労力をかけた作品までは難しいが、表現する手段としてコマ撮りは激しく魅力的だと思う。



街や都市を表現する際にも、コマ撮りだとか、クレーアニメは使えると思う。膨大な時間をかけてアイディアを練りに練って、かつ労力を惜しまなければ。


Moment-performatives spazieren


Tony vs. Paul

第3回納得研

土曜日は納得研@青山学院大学。佐伯胖先生はじめ20名以上もの参加でした。納得研は幼小中高大の先生方から大学院生、サイエンスライターの方や映画制作に携わっていた方まで、多種多様なナマの現場を駆け抜けている方々の集まりで、研究会後の飲み会も非常に豊か。


青山学院大学社会情報学部では学生教員にiphoneが無料で配布されるという驚愕の事実が判明。佐伯先生に無限に自慢され、私も次の日に機種変しに行きました。


学生にiphone上のアプリをがんがん開発させ、それをガシガシ世の中に提供せよ!という思想のようです。これは素晴らしい。素晴らしすぎる。大学側は激しく金がかかるわけだけれども、オープンなプラットフォームにアプリをダダ漏れさせるよう仕向ける教育環境はお見事。


青学の学生にとってのみ有益なアプリ開発でも面白そうだし、自分の住まうコミュニティにとって有益なものでもいい。勿論世界に向けてもいい。とにかく自分がダダ流ししたアプリを誰かが楽しむかもしれないという経験は情報デザインの学習にとって極めて重要だと思われる。



納得研は駿河台大学の青山征彦さんの発表と、有元×岡部の『デザインド・リアリティ』に関する話題提供。




報告1 「ハイブリッド・コレクティヴから媒介を考える」青山征彦さん(駿河台大学)


発表概要:ハイブリッド・コレクティブというのは、アクターネットワーク理論を背景にした概念で、主体性がさまざまなものとのネットワークの中でしか達成されないことを指摘するものです。今回は、この概念の問題点を検討しながら、では主体性についてどのような記述が適切なのかを考えたいと思います。理屈っぽい話ではありますが、心理学の様々な記述に影響する問題だと考えています。みなさんと議論できるのを楽しみにしています。


例えば私は、日曜日にiphoneを購入したのだが、iphoneを持った私はiphoneによってパワーアップしたとみることもできる。この見方は旧来的な人と道具の関係の見方。その一方で、ケータイという道具は私たちに「充電を要求している」とみる考え方が社会学にはある。ケータイが充電しろと私たちに語りかけていると。


この考え方だと、人間だけが全能で、モノはあくまで主体である私たちを増強するに過ぎないとは言えない。充電を要求するケータイと人間を非対称にとらえるのではなく、双方を同じネットワークの中の「アクター」として見てみるのが「ハイブリッドコレクティブ(異種混淆)」の考え方。


人間だけが何かをできるんだと単純化するのは不誠実で、モノと主体である私たちを同列において議論するのが「ハイブリッドコレクティブ(異種混淆)」の考え方。



科学技術社会学者のカロンはこんなふうにも書きます。


「私が東京から京都にドライブしようとして日産車のイグニッション・キーを回すや否や、私は次のようなもの全てを動員することになる:車をデザインしたエンジニア、材料の抵抗を調べた研究者、中東の砂漠を探索し石油のために掘削を行った膾炙、ガソリンを生産する精製所、高速道路を建設しメンテナンスをする土木建設会社、私に運転を教えたドライビング・スクールとその先生、交通法規を創案し発行した政府、法規を強いる警察官、私に責任と向き合うことを援助する保険会社。イグニッション・キーを回し、東京から京都へドライブするという簡単な行為は、東京から京都へ私を運ぶという行為と関係する人間および非人間物の拡張されたネットワークを動員する。つまり、私が車を運転するという行為は集合的なのだ。」

青山さんは、このハイブリッドコレクティブの面白さを十分認識しつつ、ちょっと胸焼けが残る、と述べる。溜飲が下がる状態にするにはどのように説明をすべきか検討されている。


・どのような視点から、例えばドライバーと道路と保険会社と...を記述しているのか?
・非人間と人間は対象と言えるのか→非人間だけのネットワークもあり得るのか?
・モノと人とのネットワークを事後的にしか捉えていないのではないか?



青山さんが最も主張する点は、私たちの主体がモノとの関係で決まるのならば、まずその状態に至る歴史性をきちんと追わなければならないだろうというもの。「ハイブリッドコレクティブは一夜にしてならず。」


さらに、主体である私たちがどんなモノを動員するかという、その選択性を持っていることを認めながら(モノの方が選択可能性を主体に投げているので、選択は人間のみで達成されているわけではない)、「あらかた決められている」世界にいつつ、受動と能動のモザイクにいる人間の姿を記述するのが興味深いのではないかとする。



面白い。


人間とモノの関係は常に動いているし、今もとまっていない。あらかた決められた構造の中にいつつも、日常生活の端々でその構造=文化を維持したり、ちょっと変えようとしたり、崩壊させようとする。主体はハイブリッドコレクティブ的にデザインされながら、リデザインしようとする存在だと考える。


報告2は『デザインド・リアリティ -半径300メートルの文化心理学』


有元先生が書いてくれた以下の報告概要文が激しく美しい。これだけでご飯3杯いける。


発表が異様:ひとは社会の中へ、すでにデザインされた世界の中へ、その後継者としてあらわれる。ルールとふるまい、意味と価値がすでにひとびとによって運用されているその途中からに参加する。初心者や新入りも同じこと。かれらの参加を待ち構える世界は、既に先達の実践によって秩序だっている。私たちがデザインド・リアリティと呼ぶのは、こうしてひとびとの実践によって維持され、再生産されている秩序だったこの世界のことである。だから、ひとびとの日々の実践と教え・学びは不可分なことである。生きていくことは、人間にとってはすなわち、教えたり学んだりすることなのである。このアイディアを、具体的なユース・カルチャーのフィールド調査を題材としてご紹介します。


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具体的には若者によるプリクラとケータイの利用について発表。論のおかしさ、不徹底さ、観点に関する具体的な示唆をいただいた。


・アマチュア発の情報発信が胎動する面白さと、プロ/アマの持つネットワークの相違。
・青学でやっているようなiphoneのアプリ開発のようなトランスナショナルな世界と、友達がやらないようなプリ帳を意図的にデザインするようなちっちゃい世界との関係。
・トロブリアント諸島だろうと、いつの時代だろうとやってきている自分が住まう世界のリデザインの面白さ。
・主体の「本質」は「表現」に宿る=表現を通して「本質」を可視化すること、それが人間のやっていることという視点。



宴席はアシタバが食えて伊豆七島の焼酎がすべてある近隣の居酒屋へ。生アシタバをむさぼり食ったらちょっと胸焼けした。

底なし本郷

超一流雑誌 『おとなの週末』で25,000字ほどものコラム(「底なし本郷明美」)を担当しているライター、「すでに心は縄のれん」でおなじみの本郷明美さんと、横浜国大の先生方とお会いした。


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本郷さんは田原総一朗のタブーに挑戦にも登場している思想を持ったノミスケだ。



本郷さんは横浜国立大学の先輩で、大学の文化を共有している。通底奏音のように同じ風土のゆらぎに生きているように感じる。


そういえば今回も、仕事の話は全くといっていいほどなかった。つよぽんの復帰を願うことはあっても、雑誌編集実践の難しさに関する話題は出ない。つよぽんと中川(酒)さんとの相違を語ることはあっても、情報メディアがどうしたこうしたとは語らない。



以前仕事をご一緒にしたことがあるし、今後も一緒に仕事ができる機会があったら激しく嬉しい。でも一方で、そうじゃなくてもこうして同じ風土に生きる方々と、なんとなく会えるのがたまらなく嬉しい。

New Media Practices in Japan

一緒に仕事をさせてもらっているmimiさん@カリフォルニア大学アーバイン校が舵取りするグループで、Futures of Learningというブログを書いてます。



あたらしいメディアとともに生きてきた若者は、メディアをどんなふうに使っているのか?新しいテクノロジーを生活に導入して飼いならすことは、新しいコミュニケーションをすることだし、新しい関係構築や新しい主体(=わたし)として生きることです。



ニコニコ動画やyoutube、ケータイ小説にプリクラ、...若者は様々な新しいメディアを介して他者と交渉し、それに多くの時間を費やしています。『ケータイを持ったサル』しかり、『ゲーム脳』しかり、そんなふうに若者がメディアにどっぷりと浸かることは、これまで批判の対象となる場合もありました。


でも一方で、彼らはそういった様々なメディアを介したコミュニケーションの場への参加を通して、特有のリテラシーを知り得ていくし、友人関係をどのように構築、維持するか、また自分をどのように表現するかを学んでいるとも考えられます。



Futures of Learningでは、4月は日本の若者が生きるデジタル空間、特にインターネット、ケータイ、ゲームなどに焦点をあてた記事を重ねてきており、今回は"New Media Practices in Japan"という内容で私のエントリーをあげています。


英訳はミミさんなので、非常に豊かな英語表現にしていただいております。



自分で作成した動画をニコニコ動画にあげて楽しむ姿、またはネタとして面白い動画を撮影するためにわざわざ集まる姿、ケータイ小説執筆に耽る姿、プリクラを貼るプリ帳のデザインを通して友人関係や社会的ステイタス(=地位)をデザインしようとする女子高校生...そんな、アマチュア発のメディアプラクティスを集めています。


同時に、ネット、ケータイ、ゲーム...に関する文献レビューも含めています。私の方で日本の文献情報を調査収集して記事を書いて、それをミミさんが訳しつつさらに豊かな内容にしてくれています。



6回シリーズで今4本目。次にゲームがきてプラス〆の話まで。中国、韓国、インド、ブラジルときて、今が日本事情。他の国の文献レビューも、その国出身の研究者が行っているので、総じてマニアックなものも含まれていると思います。


日本も世界も、若者のリミックス(して遊ぶ)文化の進展はすごすぎる。

9月20日から22日まで開催される日本教育心理学会のシンポジウムで、司会の任をまかされました。シンポジウムの概要は以下の通りです。司会は話題提供者の方々に好きな事を聞けるし、フロアとの議論を仕切れるし、結構好き。



教科学習での「体験」 :学校における体験と学びを考える

企画:
有元典文(横浜国立大学) ・文野洋(浜松学院大学)

司会:
岡部大介(東京都市大学)

話題提供:
黒田真由美(京都大学)
今井一仁(福岡教育大学)
岡崎ちひろ(横浜国立大学)・有元典文(横浜国立大学)
城間祥子(愛媛大学)・茂呂雄二(筑波大学)

指定討論:
佐伯胖(青山学院大学)

企画趣旨:
一般に、教科教育における学習では、生徒が当該の教科に関連する知識やスキルをいかに獲得するかに焦点があてられる。その獲得に至る過程では、この授業で何をどこから学ぶのか、今は何をする時間なのか、といった授業場面についての理解が、生徒と教師との間で相互に交渉されているだろう。この授業場面の理解のズレと相互交渉は、教員や生徒が授業を異なる形で「体験」していることを示している。ここに、教科学習の授業を「体験」の視点でとらえる意義があるように思われる。そこで本シンポジウムでは、英語教員との相互交渉を通して子どもが抱く違和感、算数の「体験」を考慮した授業デザイン、英語の授業場面における新人教員と古参教員の「体験」のズレ、伝統芸能の実演家との協同で実施される授業での学び、をテーマとした研究事例の報告をもとに、教科学習を「体験」の視点からとらえ直す。そこから、学校教育における体験と学びについての議論を展開していきたい。



体験、技能、授業実践、授業デザイン、教科教育、相互交渉...といったようなことばにどうしても身体が反応してしまう方々は是非ご参加いただければ幸いです!

ゼミにはつめ。

水曜日は午後からゼミ。


4月最後のゼミ。4月の目標を、全員が全員の名前を覚え、脊髄反射でしゃべって、仲良くなることにしようと決めたので、今日の活動記録は以下の通り。



1. みんなで昼飯を食おう。


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学食で食えばいいのに、お昼ご飯の時間にわざわざ大学最寄り駅の1つとなりのセンター北に集合。仲良くなるためならやぶさかでない。


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フードコートなんだから自分の好きなモノを選べばいいのに、全員で焼きそば専門店長田本庄店のウリアゲに関与。仲良くなるためだからしたしかたない。


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フードコートは空いていたので適当に座ればいいのに、どうしてもと言うのでみんなでぎゅうぎゅうになってやきそばを食す。これ以外に仲良くなる方法が思いつかない。



2. みんなでプリクラ。


15人くらいは余裕でおさまるのね。みんな適宜全体のことを考慮しながら頑張って動いてくれた。たまらん。



3. やりたいことの把握とチーム分け。


今年1年、各自のやりたいプロジェクトを少しずつ聞きだすコミュニケーション。まだ全員の欲望は聞き出せてない。


オタ系エスノグラフィは少数精鋭でいい感じ。ラジオ番組とのコラボ企画を考えるグループと、FWで得られた知見の表現方法をアーティスティックに考えるグループも、なんだか無限にはしゃいでくれそう。たまらん。



4. 自己愛新歓。


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夕方からは二子玉川のGekkoにお邪魔して宴席。3年生のみなので被新歓は経験できず、自分たちで自己愛新歓。


オーナーの會津さん、スタッフの郡司さんに腹から声を出してご挨拶。上品ではない発言を宴席に並べても、限界を超える礼儀を貫く。


豚肉、甲殻類、魚介類を5時間半焼き続ける。しまいのシナモン焼きバナナもたまらん。終電がせまってきたのと、みんな明日の仕事や授業があるというのでやむを得ず解散。

なぜ、腐女子は男尊女卑なのか?

のりまきからご紹介いただいたアフタヌーン新書の『なぜ、腐女子は男尊女卑なのか?:オタクの恋愛とセックス事情』を読んだ。



これは、大手出版社に勤務する複数人の腐女子OLが好き勝手に喋った内容を、元出版社勤務で現在社内報を作っている派遣社員がまとめた(あとがきより)本。


イメージと異なり口語体で記述されており、その文体に慣れる必要があった。わざわざ口語体を用いて「腐女子の日常」を語る姿勢は、自分の著作も含め世に数多ある小難しい腐女子論考へのアンチテーゼのようにも見えた。難解な理論や言い回しを用いて具体物の腐女子から乖離したような結論を述べるのではなく、まずはただ生の腐女子を語ろうじゃないか、ということだろうか。



本書の中には、ゼミのメンバーで腐女子(アキバ系女子ではなく、腐女子)研究をするだろう学生さんにとって、示唆的な観点がいくつかあったと思う。



まずタイトルが秀逸だ。あくまで私の印象だが、(半分)ネタとして自己卑下したり、男女交際に関する話題提供の際に「彼氏」を中傷する発話をあまりしないのは腐女子の特徴の1つだと思う。そんなことをちょっとでも知っている人であれば、「男尊女卑」という一言で腐女子を表象する観点には共感する向きが強いと考える。だから私も、内容に対する批判的なブログも目にしたものの、何かヒントが得られそうだと思い即タイトル買いした。



著者の「腐女子シンジケート」は言う。



「そう、認めたくないけど、うちら腐女子は今どき珍しく男尊女卑が身についている貴重な女性たち(すべての腐女子が男尊女卑と言っているわけではないのです。でも、男尊女卑的体質じゃない腐女子がいたら、彼女はそこの部分は「腐女子的」ではないと言えると思う)。しかし、その崇拝の対象は「高学歴」とか「仕事が出来る」とか「才能がある男」限定。今どき、男で自己実現しようなんていうのは腐女子だけ。」(p159)



今どき珍しく玉の輿願望が強い女子や男尊女卑思想が身についた古式ゆかしい女子を見たら「腐女子?」と疑ってみよう。(p161)


腐女子が男尊女卑であるかどうかの根拠は一旦置いといて、腐女子が生の異性とどのような日常を過ごしているか、腐女子の彼氏や旦那との関係構築、腐女子の貞操観念などの(おそらく)タブーは今日の観点として興味深い。それが非腐女子とは異なるものとして記述できそうであればなおのことである。



一方で腐女子シンジケートはこうも述べる。



「時代の変化とともに腐女子も変化している...BLの内容もすごく変わってきてる。もちろん、相変わらず...「アラブの大富豪に日本人の美少年が誘拐されて...」という作品も多くある。ところがそうじゃない庶民的な男性が多く出てくる作品も増えてきた。...BLの読者は等身大の受けに感情移入できるようになってきたってこと。...BL読者は、自分から距離のある美少年キャラクターよりも、自分たちに近い男性の登場人物を受け入れたってことでしょ。」pp.185-188



若い腐女子は伝統的な腐女子とは異なる価値観を持ってきているとのことである。もはや腐女子にまつわるイメージは人口に膾炙してしまい、腐女子の生態系やアイデンティティ、コミュニティの表面的な特徴を記述するだけでは研究テーマにならない(と思う)。いわんや「オタク」をや。価値観の変化を捉えていくなり、よりタブーな価値観に踏み込むなりしながら、アカデミックに知的遊戯をするその意味をきちんと考えていかないといけない。


そういった意味で、いくつか新規テーマのタネを含んだ書物として本書を捉えることができると感じた。

文化心理学コロキウム

京王線の仙川から徒歩10分、白百合女子大学で開催された文化心理学コロキウムに参加した。


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白百合女子大学の心理系は、「生涯教育発達センター」を組織するなど、発達心理学に非常に強いところである。キャンパスは緑が多く、エントランスからの道のりも建物も瀟酒で、無限に「行き届いた感じ」がした。歴史は古いが汚れていない、そんな大学構内だった。


発表者は『デザインド・リアリティ:半径300mの文化心理学』を著した有元典文先生で、今回は朝倉書店から出版された『文化心理学』の内容に関する講演。




講演のタイトルは、「心理学の文化心理学化に向けて」。まずは主体である人間を観察する際、個人の皮膚の内側ではなく、個人を取り巻く「文化」とセットで捉えていく視点が確認される。


その1つ目のデモンストレーションが、電球。問いは、「なぜ電球は輝くのか?」


勿論、電球が輝く物理学的な説明がありうるだろう。ただし、江戸時代では自分の家で白熱電球はつかない、なぜなら電球がつくためには、当然発電所や配電に関するインフラや公共料金徴収のシステムといったような、社会文化的なメカニズムが必要だから。電球がつくには、その物理的な理由に加えて、インフラなど「周り」もセットで考えなければならない。


そして怒濤のデモンストレーションが続く。「定規を使わず10cmの線をひいてみよう。」...6割7割くらいの参加者が±1cmの幅で描ける。でも世界基準のメートル法が構成される1791年以前は、10cmの感覚を持つ事はできなかった。


人間にはもともと統一の規格がなかったけれども、後天的に、長さに関する共通基準の感覚=能力をインストールしたことになる。そもそも持っていなかった人間というハードウエアに、共通の長さの感覚に関する能力をインストールしたのである。


秒のような時間の感覚も同じ文化に生きる人なら共有できるし、音階なんかもそうだろう。そういった私たちが普段無自覚な文化的ソフトウエアのデモンストレーションを繰り返しながら、私たちが猛烈に文化的な存在であることを説明していく。


生まれつきの人間には、長さを測る能力も、時間を計る能力も、音階を聞き分ける能力もなかった。だけれども、プロトコルがどんどん編み合わされていく、私たちはそんな文化的ロボットなのかもしれないという思いに至る。


電球が光る理由を電球の内側のことだけにみるのではなく、電球を取り巻く社会文化的な仕掛けとセットで考えてみる。私という個人を見る際に、私の皮膚の内側だけではなく、私をとりまく社会文化的な仕掛けとセットで考えてみる。



このウオーミングアップに続いて、朝倉書店の『文化心理学』の章のメインでもある「犬の本性」の話へと続く。人間にペットとして飼われる犬は、人間と暮らす限り、日々コンクリの階段の昇降をしたり、車の助手席に乗ったり、室内での躾の機会にさらされる。


こういう日常を経験する限り、犬の本性は、その犬が人間と生きる社会文化的条件と切り離して考える事ができない。どこまでが「本質」でどれが社会文化なのかは切り出して考える事はできない。



これは人間でも同じであろう。日常素朴には、男の子は「男の子のような遊び」が好きよね、という話は保育園幼稚園でよく耳にすること。このとき生まれ持った「男の子」の本性のようなものが顔を出しているわけだが、実際はトイザラスで男の子コーナーに連れて行かれたり、ちょっとやんちゃな遊びをしても注意されなかったり、ズボンを日常着用すること...を通して男の子は「男の子のような遊び」をするようになる。


ちょっとしたインテリ層なら、男の子(らしさ)や女の子(らしさ)は社会的に構築されてるんだと言うこと=性別の脱構築は容易だろう。だけれども、だからといって「安定した現実」になっている男の子(らしさ)や女の子(らしさ)を日常生活で私たちはドラスティックに(思い切って)変えようとしない。


男の子だからズボンというのはおかしい、そうすることが男女差別だと言い放ってスカートをはかせたりすることは、かなり少ない。思想としては性別の脱構築ができても、実際は「安定した現実」の許容範囲内で日常を過ごしていると思われる。


そう考えると、「安定した現実」は強い。この「安定した現実」が社会で流通していることが重要であり、そういった現実を共有できていることが、ある文化に生きることなのだろう。「本質は無い」とうらぶれた脱構築をするのではなく、安定した現実化するということが、われわれの本質なのかもしれない。



とはいえ、私たちは「安定した文化」を遵守するだけの存在ではない。私たちは、安定化した現実を生成する=本質化するために、いろんな道具やインフラを設定したり、場合によってはルールのようなものを広めたり、語りあったり、ひろめあったりする。


そのまた一方で、日常的な語りや行為を通して、安定した現実をちょっとずつ再デザインしようとする存在でもある。これは白百合女子大学の宮下孝広先生のコメントでもあり、有元先生や私も全く同じ考えだ。


例えば私の時代は男の子のランドセルは黒色以外ありえなかったが、それも今はパステル調の青でも「男の子らしさ」とみなされる。


電車の中でポータブルゲームに興じる女性は、DSのデザインや脳トレのおかげもあって、「女性らしさ」の範疇から除外されるものではなくなった。これは日々の素朴な私たちの行為とインタラクションの積み重ねで変化する「現実の安定化」だと考えられる。


そうなると、文化や文化的実践はいつも試されている。いつも誰かが修正しようとしていたり、一方でノスタルジックに変えないようにしたりというように、文化とは「運動体」として捉えられるのではないだろうか(という指摘が有元先生の主張)。



2時間の枠は、本当にあっという間だった。通底した議論:「本質」と「文化」論争はかなり考えさせられた。貪欲に刺激を生み出そうとする人々で構成された研究会は常に面白い。企画にご尽力された東洋先生、田島信元先生、小嶋さんはじめ白百合女子大学の方々に激しく多謝。

emca

emcaのWeb頁に『デザインド・リアリティ:半径300mの文化心理学』の紹介を載っけていただきました。五十嵐素子先生、ありがとうございます!


ご笑覧下さい。
http://emca.jp/books_m_2008designedreality.php



emcaは、エスノメソドロジー・会話分析研究会(Ethnomethodology and Conversation Analysis)の略。


エスノメソドロジーや会話分析は、私たちが普段はあまりに当たり前に行っているため意識することにない、会話や振舞いの「ルール」に焦点をあてる学問。例えば、おしゃべりをしている相手の視線や関心が話者である自分からはなれたように見えたら、話者はちょっと間をおいたり、同じ事を繰り返して話したりする。


そういったポーズや復唱のような行為を「アテンションゲッター」と言うらしいが、そうすると多分相手は「うん、うん、それで?」と会話に再参加してくれる。会話の自然な流れにあえて楔を打つことで注意をひいたりする。


例えばこういったことは、ぼくらがあたり前に日常やっているわけだけれども、それをいちいち意識することはない。そういった私たちの無自覚な部分に光を当てるのがemca。


ものすごく乱雑に説明してます、スミマセン。



東京都市大の授業では、後期の「メディア技術論」で、エスノメソドロジーの発想を援用したような映像作成課題をやってみようかな、と考えている。ケータイなどのメディア利用の側面を含めながら、日常無自覚なぼくらの些末な行為にあえて自覚的になる、そんな課題をやってみたい。

ゼミいっぱつめ

今年度のゼミがはじまった(来週からでもよかったけど、はじめちゃった)。


男子10名、女子4名の14名。正直人大杉。
でもありがたいことに研究室が広いので14名でも収容可能。


今日決めた事:

1. それぞれの呼び名

きたちゃん
まるちゃん
じゅんぺい
たくろー
りさ
あき
なかじ
せきさん
スカさん
なべひろ
ホリ
ボリ
チャラ男
マティ男



2. グルワ:部屋のレイアウト決め

「人が集まる場(研究室)づくり」を目指してグルワを行ってもらった結果、卓袱台と座布団、ラグマットを購入することに決まった。なので一部土禁。フィギュアや抱き枕を崇めるように配置するかどうかは、来年度入ってくる方々への印象を決定づける可能性があるので排除。


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研究テーマにするのでゲームは(他者に配慮したプレイで)許可。



3. ゼミ写真の構図

面白いものを撮らないと負けらしい。来週22日撮影実施。



4. その他連絡事項

宴会の日程調整、外部から依頼が来ている調査インフォマントの選定、ゼミ長投票その他。



決め忘れた事:夏合宿について。

知覚の文化的デザイン

9月10日、11日、12日と認知科学会第26回大会がSFCで開催されます。


そこで、以下のワークショップを企画しました!無事学会にも採択され、違いの分かる人のしぶい企画内容が実現しました。エスノメソドロジー、アフォーダンスの理論の領域を代表する西阪先生と三嶋先生ご登壇です。




昨年同様「アフタートーク」という名の宴会も実施しますので、9月12日土曜日、是非ご参加下さい!


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企画表題 知覚の文化的デザイン
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日本認知科学会第26回大会
9月12日16:30〜18:00@慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス
http://www.jcss.gr.jp/meetings/JCSS2009/index.html
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企画趣旨
心理学では、生活体が感覚受容器を通じて自己および外界の様子をとらえる働きを「知覚」と名付け、これまで研究の対象としてきた。目で見ること、舌で味わうこと、などの感覚受容器を用いたのプロセスを切り詰めた概念が知覚である。知覚という概念の前提には、知覚対象としての実体の実在がある。つまり知覚ということばを使ったときから、知覚される外界や自己の状態が、知覚そのもののの働きとは独立に実在することとなる。ゲーテの色の知覚に代表されるような実験現象学的な初期知覚研究は、知覚プロセスの外にある実体を感覚器官と中央神経系の活動がどう経験するかの研究であったと言える。一方印象形成や偏見、ステレオタイプなどの事態を対象とした社会的知覚(social perception)研究では、知覚システムを身体の外に拡張してとらえている。こうした社会的事態における行動の解釈は、生活体内部の知覚システムだけでは説明の出来ないことである。そうした知覚システムの説明の拡張はあったものの、しかし知覚可能な対象としての社会的事態が、知覚そのものの働きとは独立に実在する※点では、初期知覚研究と同じ構造を持つ。(※ 研究者がそう仕組んでいるのだから当然だが)以上のように知覚は生活体の外部から内部への、意味・価値の引き込みとして理解されている。またそのことで、生活体の外の実在が保証され、また知覚する生活体自体(コギト)の実在も経験される。知覚と世界と私はもとの安定に収まり、つまり心理学における知覚研究は一周してふりだしにもどる。
だが安定は不安定が見えていないだけのこと。複数の生活体の間では、思い起こしてみれば知覚は衝突と調整の連続であった。知覚は身体的で安定してほんもののようだ、と思えることのメカニズムを丁寧に精査してみたい。それには一定の文化的なデザインの仕組みが関わっているだろう。エスノメソドロジー、アフォーダンスの理論の領域を代表する話題提供者から、知覚の生成のプロセスを報告頂き、議論したい。
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(敬称略)
企画:
有元典文(横浜国立大学)・岡部大介(東京都市大学)

話題提供:
話題提供1 西阪仰(明治学院大学)
話題提供2 三嶋博之(早稲田大学)

指定討論:
青山征彦(駿河台大学)
土倉英志(首都大学東京大学院)
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instructoart

先日のココロ*アートの打ち合わせの際、「フィールドワークを表現する」ためのサンプルの1つとして、instructoartをメンバーでみてみた。



この本には、日常の極めて瑣末なひとびとの「現実の見え」や「ルール」が描かれている。「物乞いから見た地下鉄の乗客の見え」がそうではない人とどのように違うか、であるとか、ヒットを打った後に臀部をぽんぽんと手で軽くたたく仕草も、それが野球のユニフォームじゃないとゲイに見えるとか、ドアがしまりかけたエレベーターに向かって「待って!」と言いながら走ってくる人がいた場合の(エレベーター内の人の)対処方略とか。


日常の人々の何気ないインタラクションを研究対象とする、エスノメソドロジー的な発想、またはゴフマン的な相互行為分析がふんだんに盛り込まれている(著者はそんなつもりで描いているのではない、と思う)。


そして何よりすばらしいのが、それらがすべて1枚のイラストで描かれていること。1ページにおさめられたイラストで、ひとびとの日常的実践の本質を表現してしまっている作品がいくつか載っている。



これまで行ったフィールドワークの知見は、論文や著書や報告書やプレゼンテーションファイルの形で、主にことばを用いて、関心を共有できる人やできそうな人向けにまとめてきた。今なおフィールドワークの成果はフィールドノートに基づいてことばで語られるのが最も良いと思うし、私自身今後もことばによる表現を続けていくと思う。


一方で、instructoartのように、「文化」を共有していることで、ぱっとみて可笑しさや気づきなどが喚起されるような作品をつくってみることができないだろうか。ことばを用いて語られるフィールドノートやフィールドワークの成果とともに、30秒以内で鑑賞者の情動に訴える作品を提示してみる。



この手の「表現」が得意なのはアートの領域だろうし、またアーティストやデザイナは、これまでずっと鑑賞者の情動に直接訴えようとする手段を探求してきた。


まねごとレベルと罵られようとも、アートの手法を援用させてもらい、フィールドワークの成果の「表現」を数年考えてみようと思う。表現それ自体は「学問的」なものとしては捉えられないかもしれないが、ある人間やコミュニティの当たり前の振舞いを1枚のイラストや写真群や1分程度の動画などで表現できたとしたら、それは極めて「学習」として興味深い過程になると思う。


対象をよく理解していないと1枚の絵で表現することなんてできないだろうし、また、見る人=鑑賞者をはっとさせたり、感心させたりすることなんてなおのことできないだろう。


「意外な日常的実践」、これをココロ*アートのプロジェクトで表現してみようと思う。

文化環境フィールドワーク

前期の金曜日の2限と4限は「文化環境フィールドワーク」の講義。上野直樹先生と一緒に、二人で授業にあたる。SAさんも手厚く3名ずつ!

初回の授業は受講生の抽選などを行ってから授業内容のガイダンス。


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今年度は、モバイル/webテクノロジーなどを用いて、

1.都市、街や地域、場所を表現する
2.都市、街や地域でのライフログを収集、分析する
3.都市、街や地域、場所をウオッチ、調査する

という演習をとる。特徴としては、都市、街や地域、場所をフィールドワークする時に、様々な今日的なテクノロジーや利用可能なwebシステムを用いること、またそうした道具の利用を通して都市や街などをとらえなおすことにある。



写真や音声メディア、動画を用いて、街や地域、場所を表現するのも1つだろう。そして得られたイメージの集合的表現として、例えば渋谷なりアキバを再解釈してみる。

または、複数人のライフログを共有することを通して、都市、街、地域で生きる、暮らす、すごすことのフィールドワークを実践してもらう。

他にも、考現学的なアプローチを用いて(洋服やメイクや持ち物やらから)、都市、街、地域をウオッチする、そんな都市学の実践が求められる。



こうした観点と切り離せないのが、方法としてのテクノロジー利用である。カメラ付ケータイはチクセントミハイの経験サンプリング法を拡張するだろうし、GPS機能を持つモバイルとGoogleMapを用いた投稿システムなどもまた、フィールドワークのスタイルや観点に影響を与えるだろう。



こうしたテクノロジーてんこもり状態で、それにSAさんらが過去に作った、フィールドワークの表現を支援するようなwebシステムを手にした私たちは、おそらくフィールドワークの対象や迫り方がこれまでとは変わってくるだろう。


これから半年のグループワークで、さまざまな観点のもと、さまざまなテクノロジーで都市や街を表現してもらうことになる。どんな提案がなされてくるのか、激しく楽しみ。

心理学*アート

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桜の花びら舞い散るGekkoにて今期のプロジェクトに関する初顔合わせミーティング。スタジオネオのアートディレクター伊波サチヨさん、本業とは別にアート活動に打ち込む吉田輪歌緒さんと、いつものデザインド・リアリティ著者組の4人。


人文科学系フィールドワークに基づいた知見を、アートとして表現したり、または何かしらデザインしてみようという実験であり実践をはじめる。私が関わるフィールドワークの対象としては、いまのところ街や都市、または何らかの共同体を想定している。


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今まで、街のイメージや街での記録を「表現」したい欲求はあった。そしてまねごとレベルではあるが実際にやってきてみた。モザイク状の写真群から都市のイメージの喚起や衝突を促したり、街の音を収集してみたり。



ただし私では、ひとつどこか突き抜けた感じの表現は全くできずにいた。でも、アート実践、デザイン実践をされている方々と友達になり、魚を炙り、対話することで、思いがけない表現がでてくると思う。


次回のミーティングまでにこの4人の交わりの中で、わたしが「やりたいこと、やってみたいこと、してみたいこと」を練り上げていかなければならない。とっても苦しそうな課題だし作業だけれども、激しくワクワクする。


Projecter Clock

「生活に不要だが、あると嬉しいメディアアート」を頂戴した。



プロジェクタークロック!


壁掛け時計は、室内の様々な場所から「もっともよく見えるところ」を独占してしまう。いったいいつまで私はこんな壁掛け時計生活を送らなければならないのだろうかと、やり場のない憤懣に苛まされてこれまで過ごしてきた。


そんなとき、プロジェクタークロック!


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時計とは、地面から垂直にたつ壁に投影するものだ。時刻を知りたくなったら、まずプロジェクタークロックのスイッチを入れて、そのままだとぼんやりとしか投影されないから部屋の照明を暗くして、プロジェクタークロックの投影角度をあわせて、そして見る、時計はそうあるべきだ。


壁や天井や床に投影されていない時計なんて、正確に時間を刻み、人間が知りたい現在時刻を瞬時に伝えるためだけの道具でしかない。プロジェクタークロックのように高熱も発しなければ、電源をとるための延長コードを要求することすらしてくれない。



頂戴したプロジェクタークロック、相当おしゃれです。部屋に入ってこられた方への「つかみ」はこれでバッチリになりました。横浜国立大学の有元典文先生はじめ、會津律治さん、森下覚さん、尾出由佳さん、岡崎ちひろさん、郡司菜津美さん、松田尚之さん、本当にありがとうございます!


Tシャツに投影させ、腹の上で秒針が動かす様がたまりません。映像作品作りでも重宝しそうです。

ランチのデザイン

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連日学生さんとの無限面談やら会議やらで、昨日まで昼ご飯はペヤングだったり酢昆布だったりした。ペヤングはキングオブ焼きそばだろうし、酢昆布がないと生きていけない人が多いのも事実だろう。


でも今日は、お昼前に外に出て最寄りの市営地下鉄中川駅周辺で昼ご飯を買おうと画策してみた。駅前だけちゃきちゃき歩いた結果、前から気になっていたパン屋「June berry」で買った。種類も豊富だし、おいしい。通えばスタッフの方々とも仲良くなれそう。



大学内に学食は1つ。パンなど軽食を販売してくれているカフェもある。いくつかメニューもあり、昼は大にぎわい。


勝手なわがままを言えば、これらにあわせてもう1コ選択肢が欲しい。学内に「はなまるうどん」か「餃子の王将」があったら天国なのだが、今から店舗を設置するのは厳しい。



では、オムトラックのような、移動販売という選択肢はどうだろうか。オムトラックは営業範囲が都心のみだが、都筑区のインドカレー屋とか、港北区のこじゃれたヘルシー丼もの屋とか、青葉区のケバブ屋とか、学内で移動販売してくれる店舗はないだろうか。


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もうじき散りゆくであろう桜を愛でながら、ランチの再デザインの可能性を探りたいと思った。

研究室のデザイン

連日荷物を運び込んでいます。
理系標準なのか、研究室は激しく広いです。学生時代に過ごした(文系の)研究室の倍はあります。

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当たり前ですが、4月1日時点では什器以外何もありませんでした...

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今はここまできました。

今は学生用の部屋がないので、この場でゼミを実施する予定です。そのためにも、今余っている空間をどのようにデザインするか、知恵を絞る必要があります。

思い切って、大きめのラグを敷いて、大きな卓袱台を置こうか。テーブルに椅子ではなく、床にクッションでどうだろうか。

冷蔵庫も掃除機も電子レンジも早く買わないといけない。PCも数台そろえたいし、資料投影用の禿薄テレビも...折りたたみの机と椅子も運び込まねば。

入学式

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東京都市大学に名称変更してはじめての入学式。

今年度赴任した私にとっても、はじめての入学式。

今年度は、例年よりも入学辞退者が少なく、環境情報学部にも500名の1年生がやってきた。無限にありがたく、嬉しいこと。他の学部も総じて増加なので、入学式の様子はサテライトで観られるようになっていたほど。

ご入学された方々、本当におめでとうございます!


2年後には何人かが私のところを選んでくれる(かもしれない)。先日、酔っぱらった恩師は「自分のゼミを選んでくれた学生を愛するんだYO!」と連呼していた。全くもってその通りだと思う。


わたしの何かに惹かれてしまって研究室に入ってくる方々とは、それが誤りであることを認識させつつ、がっつり一緒に遊んでいこうと思う。

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新学期

春。いろんな近しい方々が、いろんなところに異動されたり、いろんなところで仕事を開始されている。


私も、4月1日付で、東京都市大学環境情報学部情報メディア学科に講師として着任しました。午前中に辞令の交付をうけ、今、什器以外何もない研究室でパタパタとキーボードをたたいています。


SFCのCNSも利用可能だけれども、ブログをこちらに移行しはじめています。まったくデザインされていないだけれとも。

http://okabelab.net/blog/

新しい環境で、新しい実践がはじまるし、はじめる。新しく研究室の学生さんもやってくる(と思う...来なかったらどうしよう)。新しい協働的な研究活動もはじめる。


今年度もまた、一緒に研究実践を行っていただける方々、一緒に遊んでくださる方々、どうぞよろしくお願いいたします。


#今年は、「人の嫌がる仕事」をやろうと思う。限度はあるけれども。