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なぜ、腐女子は男尊女卑なのか?

のりまきからご紹介いただいたアフタヌーン新書の『なぜ、腐女子は男尊女卑なのか?:オタクの恋愛とセックス事情』を読んだ。



これは、大手出版社に勤務する複数人の腐女子OLが好き勝手に喋った内容を、元出版社勤務で現在社内報を作っている派遣社員がまとめた(あとがきより)本。


イメージと異なり口語体で記述されており、その文体に慣れる必要があった。わざわざ口語体を用いて「腐女子の日常」を語る姿勢は、自分の著作も含め世に数多ある小難しい腐女子論考へのアンチテーゼのようにも見えた。難解な理論や言い回しを用いて具体物の腐女子から乖離したような結論を述べるのではなく、まずはただ生の腐女子を語ろうじゃないか、ということだろうか。



本書の中には、ゼミのメンバーで腐女子(アキバ系女子ではなく、腐女子)研究をするだろう学生さんにとって、示唆的な観点がいくつかあったと思う。



まずタイトルが秀逸だ。あくまで私の印象だが、(半分)ネタとして自己卑下したり、男女交際に関する話題提供の際に「彼氏」を中傷する発話をあまりしないのは腐女子の特徴の1つだと思う。そんなことをちょっとでも知っている人であれば、「男尊女卑」という一言で腐女子を表象する観点には共感する向きが強いと考える。だから私も、内容に対する批判的なブログも目にしたものの、何かヒントが得られそうだと思い即タイトル買いした。



著者の「腐女子シンジケート」は言う。



「そう、認めたくないけど、うちら腐女子は今どき珍しく男尊女卑が身についている貴重な女性たち(すべての腐女子が男尊女卑と言っているわけではないのです。でも、男尊女卑的体質じゃない腐女子がいたら、彼女はそこの部分は「腐女子的」ではないと言えると思う)。しかし、その崇拝の対象は「高学歴」とか「仕事が出来る」とか「才能がある男」限定。今どき、男で自己実現しようなんていうのは腐女子だけ。」(p159)



今どき珍しく玉の輿願望が強い女子や男尊女卑思想が身についた古式ゆかしい女子を見たら「腐女子?」と疑ってみよう。(p161)


腐女子が男尊女卑であるかどうかの根拠は一旦置いといて、腐女子が生の異性とどのような日常を過ごしているか、腐女子の彼氏や旦那との関係構築、腐女子の貞操観念などの(おそらく)タブーは今日の観点として興味深い。それが非腐女子とは異なるものとして記述できそうであればなおのことである。



一方で腐女子シンジケートはこうも述べる。



「時代の変化とともに腐女子も変化している...BLの内容もすごく変わってきてる。もちろん、相変わらず...「アラブの大富豪に日本人の美少年が誘拐されて...」という作品も多くある。ところがそうじゃない庶民的な男性が多く出てくる作品も増えてきた。...BLの読者は等身大の受けに感情移入できるようになってきたってこと。...BL読者は、自分から距離のある美少年キャラクターよりも、自分たちに近い男性の登場人物を受け入れたってことでしょ。」pp.185-188



若い腐女子は伝統的な腐女子とは異なる価値観を持ってきているとのことである。もはや腐女子にまつわるイメージは人口に膾炙してしまい、腐女子の生態系やアイデンティティ、コミュニティの表面的な特徴を記述するだけでは研究テーマにならない(と思う)。いわんや「オタク」をや。価値観の変化を捉えていくなり、よりタブーな価値観に踏み込むなりしながら、アカデミックに知的遊戯をするその意味をきちんと考えていかないといけない。


そういった意味で、いくつか新規テーマのタネを含んだ書物として本書を捉えることができると感じた。

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北海道大学の伊藤崇先生より『卒論・修論をはじめるための心理学理論ガイドブック』(ナカニシヤ出版)をご恵送いただいた。

心理学や社会学的な論文を書いたり、執筆の相談にのっていると、どうしても理論にフリマワサレル場面がでてきてしまう。例えば、収集してきたデータをお気に入りの理論にただ当てはめてしまったり。もしくは、なんだかんだデータを紹介したあげくに、「◯◯という現象は誰某(199X年)が述べるように、社会文化的に生成、維持されているのだー。」と述べて終えてしまったり。教条主義的だし、なんのためにデータをとってきたのか分からない。

どうしてこのようなことが生じるのか。それは理論の物語る甘ーい上澄みだけを吸収して分かったつもりになっているから。それまでとは異なる世界の見えを提供してくれる理論はことさら魅力的で、その言い回しを真似てみたくなる。

経験を積んだ研究者はそんなことないだろうが、私は未だに上記のような理論にフリマワサレル論述や、理論にフリマワサレタ助言をしてしまうことがある(という自覚がある)。

ではどうしたらそんな理論の用い方を避けられるのか。それは理論を徹底的に読み込む必要がある。他の人がまとめなおした解説書のようなものではなく、原典にあたり、読み込まなければならない。それがこの本のキーフレーズ「理論のメタ読み」である。

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「理論」に振り回されずにすむには、目前の「理論」を客観的にみること、いわゆる「メタ読み」ができないといけません。「メタ読み」とは、今読みこなそうとしている「理論」を、他の学者の理論や同じ著者の例の文献で展開されている理論とすりあわせる事で理解しようとする読み方です。(ⅲ頁)
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本書では、状況論ではおなじみのヴィゴツキーの『思考と言語』、レイブ&ウェンガーの『状況に埋め込まれた学習』、エンゲストロームの『拡張による学習』、コールの『文化心理学』といった著書で展開される諸理論やら、心理学で有名なフェスティンガーの『認知的不協和理論』のような古典理論までをも相手にしながら、「メタ読み」を実践的に展開している。

その流れはABCD。


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A: Abstract 理論の内容の要約
B: Background 理論が書かれた歴史的/社会的/人物的背景
C: creativity 創造性。その理論のどこが新しいのか、どこが評価されているのか。
D: direction 応用可能な方向、処方箋。その理論に従うと、世界がどのように見えるのか。
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例えばベイトソンの『精神の生態学』のABCDの概要は以下のようになっている。

A: ベイトソンは統合失調症患者の息子とその母親とのやりとりを観察していくうちに、特有のコミュニケーションパターンを発見した。それは息子が母親に接しようとすると母親は身体をこわばらせて拒絶するものの、口では息子への愛情を示そうとするといったようなこと。これをベイトソンは「ダブルバインド」と呼び、生物学的要因ととらえられてきた統合失調症をコミュニケーションの問題として捉えなおした。

B: ベイトソンがダブルバインド理論を構想していた時代は、さまざまな領域で因果論的な見方を見直す風潮が生じていた。つまり、何が問題が生じているときにすぐにその原因を探すのではなく、「どうしてそれが問題として可能になっているのか」を問い、「(問題の)状態の維持を支えるプロセス」を記述しようとする。そんな思考様式である。

C: ダブルバインド理論の新しさは、統合失調症というもっぱら個人「内」の問題としてとらえられていた問題を、コミュニケーションの問題、つまり個人「間」の問題として捉え直した点にある。先の統合失調症の息子と母親の関係でみてみよう。母親の息子への拒絶と接近の繰り返し(ダブルバインド)により息子は発作を起こす。そしてその都度「息子はおかしい」と思う母親の意識は高まり、いっそう息子と距離をとろうとしてしまう。こうして発作が起きることで、さらに発作がおきやすい状況(ダブルバインド)が循環してしまう。こういった「循環システム」に目を向けると、実はそのシステム自体は非常にうまく機能していることが浮かび上がってくる。

D: このようなベイトソンの理論は、どのように用いることが可能だろうか。筆者(加藤弘通先生)は、ここで不登校とスクールカウンセラーの例をあげている。学校に適応できず「うまくいっていない」ととらえられがちな不登校は、どのような「システム」のもと達成されている(=「うまくいっている」)現象と考える事ができるのか?また「うまくいっていない」と批判されがちな教育現場でのスクールカウンセラー、これにはどんな悪循環のシステムが見いだせるのか?

Dで挙げた問いの回答は非常に興味深いものなので、是非本書を手に取って読んでいただければと思います。

#また、上記のABCDの内容は、ものすごく端折って書いています。16の理論すべてについて詳細に記述されています。

このベイトソンの章に限らず、極めて明快に問いにこたえてくれている。非常にテンポが小気味よい。執筆者は10人いるのだが、(全ての章がこのABCDの流れで統一されていることもあり)書き方にぶれがないのも本書の特徴だ。通底している。編著ものだと各章の記述レベルが異なり読みにくい場合があるが、すらすら読める。あとがきを見ると、7年もの歳月を費やしているとある。相当の時間を費やして文章を練り上げてきたがゆえの読みやすさでもあろう。

タイトルには「卒論・修論をはじめるための」とあるが、テーマ選びの段階でさらっと読むだけではもったいない。むしろ、本書の味は卒論・修論を執筆している段階でもじわりとわいてくるだろう。1月は卒論・修論執筆者が多い時期だと思うが、心理学で論文を執筆している学生さんは、常に机上においておきたい一冊であると思う。

デザインド・リアリティの書評

海洋科学高等学校の若林先生のブログで拙著『デザインド・リアリティ:半径300メートルの文化心理学』を紹介していただいた。

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若林先生は「納得研」(納得研究会)のメンバーでもあるが、実は今年の夏に慶應義塾大学SFCで行われた「メディアリテラシー研修講座」でもお会いしていた(そのときはきちんとお話できていなかったけれども)。

若林先生は船舶の機関に関する科目とともに、(高校の)情報化も担当されている。教員になる前は先日の納得研を開催した大成丸に機関士として乗船されたこともあるとのこと。

教育の業界の方に本書を読んでいただき、かつ書評までブログに掲載していただいて、非常に光栄です。佐伯先生の帯「教え・学び・実践をデザインする全ての人へ」にもあるように、教育や学習とは何なのか? なぜ教育や学習が必要なのか? といったことと常に向きあう実践者の方々の手にもとっていただければと考えております。

若林先生、本当にどうもありがとうございました!

目を開けて夢をみていたのだと気づくための一冊

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滋賀県立大学の松嶋秀明先生のサイトに拙著『デザインド・リアリティ:半径300メートルの文化心理学』に関する激しく嬉しい書評を掲載していただいた。

松嶋先生に対する私の(勝手な)印象は、臨床心理士の資格をもち、臨床心理学を専門としつつ、社会構成主義のアイディア、社会文化的アプローチ、状況的学習論、活動理論などといった臨床心理士があまり踏み込まない領域にも精通した希有な学者。一見異種混交な領域を2つカバーしているのは、すごい強みだと思います。

書評には、かなり「おいしいところ」を取り上げていただきました。

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私が理解したかぎりでは、著者いわく「文化」とは、現実の見え方のデザインである。いかに自然に、それ自体があるかのように見えても、人間はこの世の中を徒手空拳で生きてきたのではない。もしそのようにみえるのだとしたら、それはスピノザが「目をあけて夢をみる」といった状態に近い。むしろ、人間は世界と関わるために道具をつくりだし、それを蓄積ー継承し、自分たちが衝動のままに生きても不都合がないように、現実のデザインと再デザインを繰り返してきたといえる。これは現実の変革を可能にするという意味では、非常に夢のある世界観だし、私たちがデザインしていくしかないのだという意味では、非常に厳しさを感じる世界観だと思う。

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私たちが文化的な道具をつくりだすのは、世界を「ブラックボックス」化するための作業とみることもできる。どの時代でも、その時代にあった、快適に、半ば自動化されて、ほとんど意識することなく日常を過ごせるようにするための文化的な道具がある。それこそが人間のやってきたことであり、それは昔も今も変わらない。私たちを取り巻く人工物や状況が変われば、それとともに再デザインを繰り返す。

核となる部分に共鳴していただけるのを知ると、本当に勇気づけられます。研究会などでもお会いする機会があると思うので、さらに議論できればと思います。本当にありがとうございます!

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北海道大学の伊藤崇さんに、新刊本『デザインド・リアリティ:半径300メートルの文化心理学』をお送りしたところ、さっそく読んでいただき、書評をエントリーしてくれました!本当にありがたい限りです。お送りしてよかった...

http://dunloe.life.coocan.jp/finnegans/2008/12/04145633.html

伊藤さんの筆によって、僕らが本書で求める文化心理学的視座を以下のようにまとめていただいています。伊藤さんのいう「自分たちで仕込んだ仕掛けに満ちた世界。その世界を生きるわたしたち。」無限に嬉しいコピーです。

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わたしたち人類は、環境を変化させ、意味のある対象とすることを通して生きてきました。そうした変化が積もり積もったのが現在のわたしたちの生きる世界です。ですから、この世界には、先祖たちや同時代を生きる他者が仕込んだ仕掛けが満ちあふれています。
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焼き肉屋、コスプレ、腐女子、プリクラ、童貞...心理学系学術書の限界を軽く超えたフィールドを対象に、とことん真面目に論考した「半径300m内限定の文化心理学」です。

北樹出版『デザインド・リアリティ:半径300メートルの文化心理学』

横浜国立大学教育人間科学部准教授の有元典文先生と私とで執筆された本が12月1日に北樹出版より刊行されました。お手にとって読んでいただければ非常に嬉しいです。
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〔帯文章より〕
「教え・学び・実践をデザインする全ての人へ」
私たちの日常は、すさまじいまでに「デザインされて」いる。しかし、同時にまた、もっとすさまじく、人々は「デザイン返し」しつづけている。「文化」とはそういう「せめぎあい」の場であり、そういう現場を探求するのが本書のいう「文化心理学」なのだ!佐伯胖(青山学院大学教授・東京大学名誉教授)

〔内容紹介:北樹出版〕
私たちの生きる現実の世界はどのようにつくられ、そしてつくられつつあるのか。文化的につくられる世界を身近な切り口から柔軟に鮮やかに論じる。文化心理学の立場から世界とそのつながりを読み解いた好著。
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上野直樹・土橋臣吾編「科学技術実践のフィールドワーク―ハイブリッドのデザイン」がせりか書房より出版されました。私は5章「オーディエンスの構築にみる映像コンテンツのデザイン」を担当させてもらいました。

1 ハイブリッドの理論
01 ハイブリッドの社会学 大塚善樹
02 参加型デザインにおけるハイブリッドな共同体と社会・技術的アレンジメントの役割 ミシェル・カロン/川床靖子訳

2 社会‐技術的な布置連関のデザイン(学習環境のデザインのためのネットワーク指向アプローチ
03 学習環境のためのネットワーク指向アプローチ 上野直樹・ソーヤーりえこ・永田周一
04 人工物を介した「参加する市民」の達成と失敗 中村雅子
05 オーディエンスの構築にみる映像コンテンツのデザイン 岡部大介・福田恵
06 企業家による翻訳戦略―アクターネットワーク理論における翻訳概念の拡張 松嶋登
07 アクターネットワーク論に基づいたイノベーションの記述 入江信一郎

3 生成/変化するエージェンシー
08 技術の位置決め 川床靖子
09 科学実践におけるブローカリングによるアイデンティティー形成 ソーヤーりえこ
10 ビッグプロジェクトにおける加速器研究者の学習―KEKBフィールドワーク 吉岡有文
11 インターネットを使い倒す―集合体としてのユーザーとヘビーユースというふるまい 土橋臣吾


以下の序章冒頭部からの引用に示されているように、この本は、状況論的アプローチの潮流をくみながら、近年のアクターネットワーク論や社会技術的アプローチに言及したものになります。また、フィールドワークに基づくデータに依拠した章も多く、コミュニティを記述する新たな視点や分析を示してくれています。

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以下本書冒頭部より引用

私たちは普段、人間や社会といった存在と、様々なモノや人工物、技術などを別のカテゴリーに属するものと考えている。これは、私たちの日常的な感覚であると同時に、社会科学と自然科学のあいだに明確な境界を設定してきた近代科学の前提でもある。だが、そうした区分は本当に妥当なものなのだろうか。人間とモノ、社会と技術は、かくも截然と切り分けられるものなのだろうか。やや唐突にも見えるこうした疑問は、しかし私たちだけのものではない。...アクターネットワーク理論、状況論的アプローチなど、主に1980年代以降に登場する幾つかの理論潮流は、いずれもそうした区分を疑うような場所から問いを立て、...豊かな成果を蓄積してきている。

では、このハイブリッドとは具体的に何を指す概念なのだろうか。...それは、人間とモノ、社会と技術が、互いに異質な存在でありながらも現実には相互に入り混じりながら、切り離すことのできない状態で存在しているといった認識を示している。

松田美佐・岡部大介・伊藤瑞子編著『ケータイのある風景:テクノロジーの日常化を考える』が北大路書房から出版されました。Personal, portable, pedestrian: Mobile phones in Japanese life (The MIT Press) の邦訳を目指したものですが、大幅加筆修正がなされました。

[目次]

序文
ケータイをめぐる言説
松田美佐

ケータイの生成と若者文化―パーソナル化とケータイ・インターネットの展開
岡田朋之

第1部 文化と想像
1章 反ユビキタス的「テリトリー・マシン」―「ポケベル少女革命」から「ケータイ美学」にいたる「第三期パラダイム」
藤本憲一

2章 日本の若者におけるケータイをめぐる想像力
加藤晴明

3章 「ケータイを調査する」から「ケータイで調査する」へ)
加藤文俊

第2部 ソーシャル・ネットワークと社会関係
4章 モバイル化する日本人―パソコンとケータイからのインターネット利用が社会的ネットワークに及ぼす影響
宮田加久子・Jeffrey Boase,・Barry Wellman・池田謙一

5章 高速化する再帰性
羽渕一代

6章 ケータイとインティメイト・ストレンジャー)
富田英典

第3部 実践と場所
7章 ネゴシエーションの場としての電車内空間
岡部大介・伊藤瑞子

8章 家庭・主婦・ケータイ―ケータイのジェンダー的利用
土橋臣吾

9章 修理技術者たちのワークプレイスを可視化するケータイ・テクノロジーとそのデザイン
田丸恵理子・上野直樹

10章 テクノソーシャルな状況―ケータイ・メールによる場の構築
伊藤瑞子・岡部大介

11章 カメラ付きケータイ利用のエスノグラフィー)
岡部大介・伊藤瑞子

久しぶりの「状況論本」が10月に出版されました。
おそらく、2001年の上野直樹編「状況のインタフェース」、加藤浩・有元典文編「認知的道具のデザイン」、茂呂雄二編「実践のエスノグラフィ」以来の状況論に集中的にフォーカスした本だと思います。編者のお二人んの他に、柳町智治さん、岡田みさをさんが著者に名を連ねます。状況論の歴史や、他領域との学術的ネットワーク、また人的ネットワークがよく分かり、また、状況論的な観点での今日的、実践的な諸研究が紹介されています。「状況論マニア」必読。状況論的な思想がムクムクと構築されてきた豊かな時代・場を経験した編者に、嫉妬します。

[目次]

第1部 理論編(ネットワークとしての状況論
上野直樹

社会的実践としての学習―状況的学習論概観)
ソーヤーりえこ

第2部 フィールドワーク編(理系研究室における装置へのアクセスの社会的組織化
ソーヤーりえこ

実践に埋め込まれたインタラクション―理系研究室における実験の社会的組織化
柳町智治

教室における知識・情報ネットワーク―入門フランス語クラスでの調査から
柳町智治

リソースの組み合わせとしてのインタラクション―「アクションの理論」による終助詞「ね」の分析)
岡田みさを

"The Inside Text: Social, Cultural And Design Perspectives On SMS" という本が、Kluwer Academic Pub より出版されます。16章のsecond authorです。

Harper, R. Palen, L. Taylor, A. (edt.)
chapter 17 Mizuko Ito and Daisuke Okabe.
Intimate Connections: Contextualizing Japanese Youth and Mobile Messaging

The Inside Text

edited by Mizuko Ito, Daisuke Okabe and Misa Matsuda. MIT Press 2005.

社会的/文化的/歴史的側面から"日本のケータイ"(とページャー)を研究している方々の論文をまとめた一冊。日本語の既刊原稿を再編しての英訳もあれば、新規オリジナルもあります。