Recently in ketai Category

これも菩薩、あれも菩薩、...ぜんぶ、菩薩。

| No TrackBacks

DSC_10650.jpg


クウジット株式会社が行っている、iphone 3GSを用いた法隆寺宝物館のガイドを体験してきた。東京都文化発信プロジェクト室の森さん、橋本さん、石田さんにお誘いを受けて、歴女的なゼミ生らとともに東京国立博物館へ。


DSC_1068.jpg


ガイドのコンテンツ作成を担当をされた、ソニーのコンピュータサイエンス研究所/クウジットの本條陽子さんに案内していただき、PlaceEngineで位置情報を取得されながら館内へ。クウジットは、ブラタモリアプリも手がけている。屋外のブラタモリはGPSだけれども、屋内の法隆寺はPlaceEngineでwifiをもとに位置測定。


DSC_10640.jpg


あらかじめ仕込んでいただいている場所=展示物までいくと、iphoneがぶるっとして映像とともに紹介がはじまる。何が秀逸かといいえば、この紹介の内容。プロの声優さんに依頼して作成した展示ガイドは、とてつもなくチャーミングだった。


数多くの菩薩像を前にすると、


「あれも、菩薩。これも、菩薩。...全部、菩薩。」


「菩薩は、如来にあと一歩...。」


「あなたの菩薩ベストスリーは、どれですか?」(正確には違ったとおもうけど、こんな感じ。)


と、無限にまったりとした口調でイヤホンから聞こえてくる。私にとって、コンテンツが秀逸すぎて、もう面白くてたまらない。「あなたの菩薩ベストスリー」なんて、生まれてこのかた考えたことがない。あんなに「私の菩薩」をさがすために、菩薩の間を往来したのははじめて。


全案内が13分と、全く邪魔じゃない。全て解説するわけではない。ピックアップした6つ程度を13分でガイドする。


むしろ視点が定まって、充実した鑑賞ができた。 iphone越しの「現実」を体験することができた。これは嬉しい経験。



内容が面白ければ楽しいのかもしれないが、見えないものを可視化するのに、iphoneは適しているかもしれない。本條さんともお話させていただいたが、まちなかの『地縛霊』などをガイドしてみたら必ずやぐっとくるだろう。


来年度、向島をフィールドに、PlaceEngine×iphone3GSで、『地縛霊』(じゃなくてもいいけど)ガイドを作成してみたい!激しく。



なお、クウジットのおもしろiphone用コンテンツの1つに、「大江戸妖怪集」というものがある。これは、大江戸線に乗って移動しながら、各駅で妖怪をゲット(しかもリリースもできる)できるアプリ。秀逸。ぐっとくる。


大江戸線に乗りたくて仕方ない。

「辻占」としてのtwitter

先月、出版社の方と打ち合わせをさせていただいた際、twitterに言及した。


編集者の方はtwitterを使用されたことがないとのことだったので、twitterとはこんな感じのもので、私の場合どのように使っているのかをお話した。


その説明を耳にすると、編集者の方は「辻占みたいですね」とおっしゃった。無教養ゆえに「辻占」という言葉の意味を知らなかった私が、今度は反対に説明していただく。



wikipediaより
辻占とは、辻(交叉点)に立って、通りすがりの人々が話す言葉の内容を元に行う占いのこと。...偶然そこを通った人々の言葉を、神の託宣と考えるのである。



私はiphoneとPCでtwitterを利用しているけれども、フォローしている方々全ての「さえずり」を目にしてはいないと思う。


http://twitter.com/dai_okabe


放っておけば「さえずり」はどんどんと流れていってしまい、またレスも強制されていない(と思う)。なんとなくtwitterにアクセスした時に読みたい程度まで遡る。


でもそんな偶発的な情報の流れの中で、たまたま紹介されていたサイトのアカウントを取得したり、誰かが読み終えたとさえずった本をamazonで購入してしまったりしている。


そんなことが毎回あるわけでは勿論ないけれど、誰かが観ているとさえずったテレビ番組を観てしまったり、自宅に帰るというさえずりを見て車の鍵を手にすることもある。



たまたま、何の気なしに時間を共有してしまった人の発話によって、地味だけれども自分の行動が規定されてしまっている。ftf(face to face)で空間を共有している人の言動で行動が左右されることは多いけれども、「web空間の知り合いだらけの往来」に影響を受けることがあるわけだ。


辻占のように占いとまではいかないまでも、偶然のオンライン上のさえずりを元に次の行動が決まることのある私の様子は、辻占twitterとも見えた。



どのくらい私にとって「ひっかかるさえずり」があるのかカウントしたことはないけれども、休憩がてらにtwitterを覗いて、そこでさえずり内の用語をググったりした場合は、充実した休憩時間となったような気になる。

疑似同期

先日、年度末のNTT docomoの報告会のためYRPに行ってきた。

DSC_0199.jpg

報告会の中でのテーマの1つに、「街における疑似同期」があった。疑似同期ということばは、濱野智史さんがニコニコ動画の分析において用いているもの。



-----------------
ネット上で動画を観るという行為は、《客観的》な時間の流れから見れば、各ユーザーが自分の好きな時間に・自分の好きな動画を(=オンデマンドに)視聴するという、「非同期的」な行為である以上、基本的にライブ感を生み出すことはできません。これに対し、ニコニコ動画は、動画の再生タイムラインという「共通の定規」を用いて、《主観的》な各ユーザーの動画視聴体験をシンクロナイズすることで、あたかも同じ「現在」を共有しているかのような錯覚をユーザーに与えることができるわけです。
-----------------

常に同期的な、もしくはべったりした出会いを強く望んでいるわけではない、とはいえコミュニケーションへの希求はある...そんな今日的なコミュニケーションの様式を、ニコニコ動画のような疑似同期メディアは支えてくれる。

ニコ動に書き込むことは、自分の好きなときにコミュニケーションをとることができ、そのくせ他の「同じ感覚」を持つ人々とのつながりも体験できる。自分が面白い!と思って「wwwwwww」と書いた部分に、他の人も同様に書いている。他の人が書いている箇所に、自分も書いてみる。...こうして同じ感覚の人どうしのつながりが直接ではないけど体験できる、そんなアーキテクチャの生態系がニコ動の面白さの1つとも言える。

この疑似同期的なつながりの形成、つながりの面白さは、地域メディアにも援用できるのではないだろうか。自分が住まう地域には勿論関心がある、でも、自分が自主的にアクションをおこしたり、毎週末決まった時間に地域活動に参加するのは難しい。

でも、例えば誰かが地域で残した何らかの記録、データで、自分がなんとなく興味があるものを手にすることができるような仕掛けがあったらどうだろうか。街歩き用のpodwalkなんかは、まさに地域における聴覚を通した疑似同期の例の1つかもしれない。

誰かの「発見」した地域情報に触発されて、自分もそれにのっかって地域で情報を発信してみる。極めてニッチなサービスでビジネスにもならないけれども、疑似同期の地域メディアを考えてみるのは興味深いと思う。

Tokyo edit

メトロが好きだ。どこにでも連れて行ってくれる。小学生の頃はじめて東京(といっても主たる目的はつくば博)に来た時、東京に関する最大の記憶は地下鉄だった。

私の持っている山手線内の東京概念地図は、地下鉄の路線地図と等しい。なので、日比谷線がどの道路の下を走っているのか、千代田線はどのようなカーブを描いているのか、意識しようにもまるでできない。


で、Tokyo Edit。


ふだんなんとなく思い描くコトを、形にしてみる。地下鉄の屋根を見上げ、そこを透かして路上を移動したとしたら、どんな風景なのだろうか。小粋で、行き届いていて、でも泥臭く、楽しい。そんな動画コンテンツ、Tokyo edit。

学部4年生伊藤翔氏の作品。ある場所=特定の駅、あるタイミング=発車時間に再生するからこそ味わえるパラレルワールドの面白さ。具現化された妄想の背景には、地図とビデオカメラを手に、都内をチャリで走り回る伊藤氏の狂気じみた努力がある。

湘南道草プロジェクト

suitcase_caps002.jpg

2009年3月20日(金)・21日(土)・22日(日)の3日間、ケータイラボとFm yokohama “We Love Shonan”との企画「ボトルキャップ回収&フリーマーケット(湘南道草プロジェクト)」を開催します。

これまでラジオからの情報告知を介して続けてきたペットボトルのキャップ回収ですが、今年度の〆イベントとなります。

会場は慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスそばの「626 cafe」です。お時間のあるかたは、ぜひお越しください。ホットドリンクも準備していますし、同番組パーソナリティの私物フリーマーケットも行われます。

日時:2009年3月20日(祝)・22日(土)・23日(日)
場所:626 cafe(慶応大学湘南藤沢キャンパスそば・小林ビル1F)地図は以下のURLにあります。

・湘南道草プロジェクト 
http://shonanmichikusa.jp/welcome.html

季節の風物詩:報告書

090311_205855.JPG

3月。報告書と企画書シーズンまっさかり。無限ファイリング祭り。CD-Rにもデジタルファイルをつめこんで、明日運送会社に駆け込めば、春に一歩近づける。


夜のハゲ頭またアゲハ乗るよ。鉄火丼今度買って。痛いおなか、なお痛い。

無限ペットボトルキャップ

3343168431.jpg

ケータイラボ*ラジオ番組のプロジェクトとして、激しくペットボトルキャップ回収を行ってきた。

ハイブリッドなメディア空間を横断した場づくり実践だったのだけれども、とりあえずこれまで集めたキャップの総数を正確にカウントしてみることにした。

キャップの山を1人で数えYO!とする気力が起きるわけもなく、メンバー4人が集まった折に勢いで数えてみることにしました。勘定にかかった時間は約40分。上のyoutubeはその様子を早送りしたもので、キャップの山が崩壊していく様と規則正しく運動する8本の腕が見て取れる。

集計結果は4,392個(これは5.49人分のワクチン支援と、34,587gのCO2削減にあたります)。1人で数えていたら多分4時間以上はかかったと思われます...

せっかくなので色分けしてカウントしてみた。

圧倒的に白が多い。白だけで2700個程度となる。次に多いのは青。ペットボトルの水を飲む習慣が根付いていることがうかがえる。そしてあたたかいものや一部のお茶に使われているオレンジや赤や緑が続く。

3343168793.jpg

3343168893.jpg

3月末に、今年度最後のラジオを介した場作りイベントを実施する予定である。そこの場において、回収されたペットボトルキャップを用いた展示を行う。お菓子の(透明な)でかい空き箱に白・青・赤のキャップをいれてトリコロールキャップを作ってみたり、白地に青で何かロゴを描いてみようとも思う。

しかし、エコ活動、というかキャップ個数集計は、熱い。

市町村単位で「子ども脱ケータイ」が宣言されたり、最近話題の「子どもとケータイ」。これまではその利用者数が少なかったり、インフォマント(小中学生やその親)へのアクセスが難しかったりする理由で、利用実態に関する研究はまだそれほど蓄積されてきていなかったと思われる。

そんな中、『ケータイのある風景:テクノロジーの日常化を考える』でご一緒させていただいた中央大学の松田美佐先生より、最新の著作(論文)をご恵送いただいた。

Misa Matsuda (2008) Children with Keitai: When Mobile Phones Change from "Unnecessary" to "Necessary", East Asian Science, Technology and Society: an International Journal 2: 167-188.

以前よりこの論文を執筆されていたことは存じ上げていたが、社会の興味関心とこんなにもマッチしていて、スゴス。

論文でも紹介されているが、2005年11月の調査では、小学5-6年生の携帯電話所有率は29.7%、中学生では65.3%とのことである。松田先生が調査した2006年から2007年にかけては、中学2年生(東京)で75%にまで増加している。ちょっと前までは、高校入学直前/中学卒業時に「ジモトモ」との繋がりを保つ理由からケータイを所持することが多かったように記憶しているが、「ミンナモッテルカラ」というお強請りも使えるくらいに普及している。


このように急速に普及しているメディアは研究対象として興味深い。


現在でも「不要だ/悪だ」と考えられがちな子どものケータイ。その一方で、防犯・安全確保の目的を持つ「子ども」をターゲットとした「必要な/良い」端末も多く販売されてきている(防犯意識を誘う「治安への不安」は、実は「体感不安」ではなかろうかという興味深い指摘が論文中でなされている)。この「不要」と「必要」を巧みにコントロールしながら、親子間での「ケータイ所持に関する交渉」が行われる。本論文は、その交渉の具体性を描写しながら、新しいメディアを透かして現在の家族関係の姿を論述するものとなっている。


この交渉の具体性が面白い。


インタビューには、子どもがケータイを所持することにより、いじめや出会い系サイト、「危険な他者」などとの出会いやトラブルの可能性を危惧する親の様子が示されている。また、子どもの「ケータイ依存」も問題視されているようだ。それにたとえ家族割などに入っていても、ケータイ所持には数千円/月かかる。それゆえ子どもには「贅沢品」であり、「できれば使わせたくないテクノロジー」である。

なのに、「子どもの安全」という話になると、調査対象となった親は「まっとうな理由」として調査者に語りだす。この揺らぎが非常に面白い。幼稚園児のDSにしても、小学生のケータイにしても、子どもには「贅沢なテクノロジー」であり、世間一般には「早い」とつっこまれることが予測される。よって"ケータイは親にとって「できれば使わせたくないメディア」であるがゆえに、子ども自身が強くほしがっても、すぐにそのまま買い与えることはない。"のである。

それゆえ、「贅沢品」であることを了解しつつも、何かそれを補ってあまりある「全うな理由」が必要となるのである。そして論文にも示されているように、インフォマントは「子どもにケータイを持たせたきっかけ」(むしろ「いいわけ」?)について調査者に数多く語ることになる。

これまでは、もしかしたら早期にケータイなどのテクノロジーを持たせるのは、その親の「特殊性」、「個人の問題」として片付けられるような状況もあった。しかしこの論文で示されているように、着眼点として重要なのは、「必要性を感じるような具体的な状況との出会い」なのである。

その「必要性」を担保する上で、「治安への不安」の言説や「安全」は非常に強力なツールとなる。さらに興味深い点てとして、"子ども自身が「子ども(=自分)の安全」に対する親の関心を逆手にとって"交渉し、"親子の「綱引き」に「勝利した」ケース"も紹介されている。

本論文は「子どもにケータイは必要か否か/善か悪か」といったような、ここ何年か議論の対象となっている論調とは一線を画す。むしろ一歩ひいて、実際にケータイが家庭や学校でどのような「意味」を持っているか、またそれがどのように再構成されつつあるかについて、頭を冷やした分析がなされている。

子どもにとってあたらしいメディアの意味は、本論文で示されているような具体的な交渉の中のみに存在すると思う。交渉は日々家庭の中で生じ、学校や地域に拡張し、やがてある時点での「常識」となっていく(「常識」もまた再構成され続ける)。「社会的なもの」としてのテクノロジーの意味を考えていく上で、さらには「家庭」や「子ども」の今日的意味を考えていく上でも、非常に面白く読むことができた。

松田先生、ありがとうございました!

『赤い糸』読了。有名な作品しかおさえていないけれども、『Deep Love』と『恋空』に続きケータイ小説3作品目。読むのはしんどいが、お約束不幸とそこからの回復の連鎖をベースにしたケータイ小説文法が分かると、文法に沿って展開されることへの期待も芽生えてきた。

「ケータイ小説は泣きたいときに読む」

以前高校生にケータイをどのように使っているかをインタビューした際、あるインフォマントはこのように言っていた。幸と不幸が短い周波でよせてはかえす、その主人公の感情の浮沈を数分程度で読めることが心地よいようだ。長く読みたければいくつかの波を読めばいいし、切れ目が明確なのもこれを支える。

実際に毎回読んで涙するわけではないだろうが、水戸黄門的お約束も期待できるので、このケータイ小説という道具があれば「ちょっと切ない気持ちになりたい」くらいの欲求はあらわれると思う。

「ケータイ小説を夢中で読んでるなんて友達には言えない」

一方でこのようにこたえるインフォマントも印象的だった。彼女は寝る前に布団の中でケータイ小説を読んだりしているようだが、「ケータイ小説を読んでいる=通俗的なわたし」というカテゴリ化を回避したいというようなことを述べていた。どんなコンテンツを消費するのか、このことはわたし=アイデンティティの可視化の問題であり、友達からどう見られたいかという印象管理の問題ともつながる。

古い話だけれども、2007年の書籍の年間ベストセラー「単行本・文芸」部門の1位から3位はすべて「ケータイ小説」が独占した。プロの作家ではない一般の若者によって書かれた作品がほとんどで、まるでメールの文章のような、横書きの短い文章が特徴。これを書籍化したものがベストセラーになっている。主な読者層は10代の女性で、しかも地方の子が多い。

この現象をうけて、2008年はケータイ小説それ自体やそれを消費する人々に関する論考が数多く世にでた。

その中の1つ、杉浦由美子さんの『ケータイ小説のリアル』では、ケータイ小説のようなケータイサイトやコンテンツは、「読む消費」以外に「書く消費」を生み出したという指摘がなされている。プロではないケータイユーザーが、ブログを書くような感覚でケータイを使って小説を書く。ケータイ小説は、それまでの情報の流通を少し揺さぶるものとして興味深い。

プロの作家が書いたコンテンツをただ読んで消費するだけではなく、アマチュアである自分が書いたものが他者にとって情報価値がある、という感覚を得ることができるのかもしれない。この感覚を得ることこそが「書く消費」ということになるだろう。

ケータイ小説の文法に着目した論考も多い。ケータイ小説はストーリーが急展開したり、お決まりのパターンがあり、場合によっては支離滅裂にも見える。こうしたアマチュアの作品であるケータイ小説は、はたして「小説」と呼べるものなのだろうか?文学なのだろうか?この問いに関する書物はいくつか出版されている。

石原千秋さんは、「ケータイ小説は『文学』か」という議論それ自体が無意味だと述べている。アマチュアのケータイ小説を小説と認めない人々は、純文学のみを小説と認めているだけであり、単なる好みの問題か差別の問題に過ぎない。

書いた小説をケータイで書いたアマチュアの「小説家」は、純文学としてその作品をアップロードしているわけではない。小説の形をまねている以上、アマチュアのケータイ小説も、小説である。ただし、それまでの小説とは異なるジャンルとして見る必要がある。

濱野智史さんの『アーキテクチャの生態系』の中での指摘も興味深い。

----------------

アマチュアによるケータイ小説やそれをケータイで読む読者を、(ケータイ小説のワンパターンや支離滅裂さから)嘲笑する人々もまた、ワンパターンで素朴に見える。ケータイ小説には、ケータイ小説を批判する人たちとは異なるリテラシーを有した文化圏(=生態系)があり、そこにもそれ相応の「複雑さ」があるはずだという感度が欠けてしまっているのではないだろうか。

ケータイ利用のリテラシーの水準からみたら、ケータイ小説は非常にリアルなものである。だからこそケータイ利用のリテラシーの世界に生きる人々にとっては非常に価値があり、それ以外の人々からは批判される。ケータイ、またはケータイ小説は、限定的ながらも価値を同じくする人々の共同体形成を促進したのではないだろうか。
----------------

ケータイ小説を入口の1つにしながら、わたしたちが、小集団でのみ共有可能な価値や評価やルールといったものに重要な「意味」を見いだしている点、この限定的な客観性を今日的な特徴の1つとして指摘している。

ケータイ小説の一読者として私がどの程度この「客観性」の意味を理解できたかと言えばほとんどできていないだろう。ただし「客観性」は生き物であり、共同体に参与してくる(新参)者の分だけ移り変わっていく。ケータイ小説のリアルもまた流動していくだろうし、書き手も読み手も「そこら辺の人」からなる共同体だからこそ、自分の読み/書きの実践が「客観性」に直接的に影響を及ぼす。

価値や評価やルールのようなことがらは、決して元々そこにあったものでも、外側から付与されたものでもない、ということ。このことは、ケータイ小説のようなアマチュア文化で見えやすい事柄だと思う。

湘南道草プロジェクト

| No Comments

DSC_7513_2.jpg

ケータイラボでは以下のような形で、10月26日と11月2日に「湘南道草プロジェクト」を行いました。
-----------------------
エコ活動したついでに、湘南で遊びませんか?
これは、わざわざ道草してもらいながら、ペットボトルのキャップの回収を行うものです。ペットボトルのキャップは、800個集めると子供一人分のワクチンになります。一方でこれがただのゴミとして焼却処分されると、6300gのCO2に変わります。ただし、エコ活動はやろうと思ってもなかなか腰をあげるのは大変です。わざわざ回収場所に出向くのも面倒です。また、800個のキャップを集めるなんてことも、個人では到底難しい話です。そこで、湘南道草プロジェクトでは、鎌倉(の御成通り)にちょっとした仕掛けをすることで、少しだけ楽しいエコ活動を実現しようとしています。

ちょっとした遊びのために、携帯電話を使います。キャップの回収場所は鎌倉駅の御成通りなのですが、御成通りのどこなのかは、実は鎌倉駅に行かないと分かりません。(技術的にそういう仕掛けにしています。)鎌倉駅に着いたら、携帯電話でshonanmichikusa.jpにアクセスしてもらいます。他の場所からアクセスしても、回収場所は分かりません。鎌倉駅周辺でないと回収場所の地図や情報は得られない仕組みになっているのです。
-----------------------

と、こんな感じで行ったプロジェクトですが、10月26日に283個のキャップが集まって、11月2日には1618個集まりました。今後は、FM横浜のwe love shonanのコーナー化されることになりそうです。

http://shonan.keizai.biz/headline/622/

FMヨコハマ「WE LOVE SHONANブログ:湘南道草プロジェクト☆」

ケータイ写真共有:rader

| No Comments

radar.net

Tiny picturesという、サンフランシスコにある会社が手がけているraderのご紹介。これはケータイカメラで撮影した写真を、仲のいい友達とか恋人どうしで共有できるモノ。ケータイ上ではアプリで動いて、(確か)写メールのようなプッシュタイプではなく、プルタイプで共有している相手の撮影した日常的な写真を閲覧でき、コメントもつけられる。細かい点まで知っているのは、たまたま、偶然、去年参加した学会でこの開発者に会って教えてもらったから。

このようなタイプのケータイ写真共有は興味深い。「ちゃんとした写真」はデジカメで撮りたいので、raderのような仕掛けは、極めてケータイ写真向き。日本でやった調査では、ケータイ写真を送信する相手については、特に若者は非常に注意を払っている。ケータイ写真の被写体は極めて日常的なものが多く、「こんなん送っても、相手も迷惑だろうし」という声も聞かれた。ただし若者たちは、特に親しい間柄の人とあたかも24時間一緒にいるかのように(「場」を共有しているかのように)コミュニケーションをとる、「フルタイムインティメイトコミュニティ」を形成しようとしている。これに写真が加わる、しかもraderなら、メールのように「即返」の期待を含まずに相手に自分の様子や見ているものを伝えることができる(相手が見れば)。ポイントの1つは、自分で見たい時間に、自分でアクセスして見られる点にもあるようだ。

以前、raderと類似の仕掛けのユーザーテストを行ったときは、特に親しい友達どうしよりも、恋人どうしの利用が特徴的だったし投稿頻度も多かった。「就職活動の最中、ふとできた時間に彼女がもし写真をあげてくれているのを見つけたら嬉しい。」といったように、ただ目の前の情景をアップしあうだけで(しまいにはテキストは極めて限定的もしくはテキスト無しでただ写真がガンガン投稿された)、「場の共有感」が達成される。

相手の見る、極めて日常的な景観や状況をケータイのスクリーン越しに垣間見る経験は、ちょっと楽しい。これの行き過ぎた例で倒錯的興奮まで覚えてしまうものが、映画「マルコビッチの穴」。人気俳優ジョン・マルコビッチの「目」になって外界を知覚できるという設定のこの映画で描かれた主人公の興奮は、raderでほんのちょっと再現可能かもしれない。